『深海のYrr』に続くSFつながりで、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の話。
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた。
というオープニングが早くもスケールの大きさを予感させるこの作品は、太古の海の情景、アトランティスの崩壊を目撃するプラトン、悉多達太子の求道、エルサレムでのイエス処刑を経て、いきなり西暦3905年の荒廃しきったトーキョーに飛び、惑星開発委員会が置かれたアスタータ50でのMIROKUとの戦闘ののち、ついにはアンドロメダ星雲の第八象限の惑星で圧倒的な寂寥感に包まれつつ幕を閉じます。
光瀬龍の作品の中でもとりわけ評価の高いこの『百億の昼と千億の夜』の人気は、そのスケールの大きさや全編を貫く無常観もさることながら、主人公のひとり阿修羅王の魅力に負うところが大きいと言えます。この作品の中では、阿修羅王は美少女の姿をとって読者の前に現れ、決して勝つことのない戦いを戦い続けます。
この作品は萩尾望都によって漫画化されていますが、彼女もまた、阿修羅王の魅力にとりつかれた1人でした。以下は、世界の破滅の真相を究めるべく兜率天を訪ねた悉多達太子が初めて阿修羅王と出会う場面。
はためく極光を背景に1人の少女が立っていた。
「阿修羅王か」
少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それににつかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。
しかし、なぜ『百億の昼と千億の夜』では阿修羅王は少女の姿をとっているのでしょうか?その謎を解明したのが、SFマガジン2008年5月号に掲載された宮野由梨香氏の評論「阿修羅王は、なぜ少女か」で、この評論は第3回日本SF評論賞を受賞しています。ここでは、『百億の昼と千億の夜』の旧ハヤカワ文庫版に付された「あとがきにかえて」を手掛かりに、この作品がすぐれて光瀬龍の私小説としての構造をもっていること、そのことを萩尾望都ですらも見抜くことはできなかったことを明らかにしていきます。
宮野由梨香氏はまた、この作品の3種類のテキストの異同、とりわけエンディングの違いを見比べていくことによって自らの立論を補強していきますが、その記述によって私は初めて、初出(SFマガジン連載時)では転輪王の正体が地衣類だったこと、《シ》が《主》ではなく《死》であったこと、この世界の外にあって影のように会話を交わすものたちの世界へ阿修羅王が送り込まれ、そこでオリハルコンの球体に包まれた重力場空間=我々の世界が影たちの実験の一つに過ぎなかったことが明示されていたことを知りました。さらに、初出から四半世紀を経て最終改訂が加えられたハヤカワ文庫新装版のテキストでは最後に冒頭の「寄せてはかえし」のリフレインが再び配置され、「その幾千億の昼と夜」へ還りたいと願う阿修羅王の悲痛な喪失感の吐露で締めくくられることによって、この物語の全編が阿修羅王の目をもって叙述される構造へと変化したことが明らかにされており、非常に興味深いものがあります。
光瀬龍ファン、あるいは『百億の昼と千億の夜』のファンなら、必読の評論です。