書斎

『エール大学の書斎から』(浜田宏一)再読。本書は1986年からエール大学の経済学教授として米国に住む著者が、自身の体験をベースに様々な観点からの日米比較を行い、これを軽い読み物としてまとめたものです。ただし本書の初版第一刷発行は1993年とかなり古く、この年は米国では共和党のブッシュ(父)から民主党のクリントンに大統領が交代し、一方の日本の首相は宮沢喜一氏(1991年就任)という時代です。

私が本書を初めて読んだのは、今からちょうど20年前の2001年でした(入手したのはもっと前ながら「積ん読」期間が長かったと記憶しています)。その後この本は断捨離の対象となったのですが、最近になってひょんなことから思い出して読み返したいと思いAmazonで再び買い求めたところ、届いた本は2013年発行の初版第三刷。この間の1995年に第二刷が発行されていますが、それにしても18年もの間隔をあけて本書が再発行されたのは当時の著者がアベノミクスとの関わりにおいて注目されていたかららしく、本書の帯にも「アベノミクスの原点」「緊急重版出来!」とでかでかと書かれていました。

したがって本書を読みながら、その背景にある1990年台前半の社会経済情勢(ちょうどバブル崩壊の初期)を振り返り、あわせてアベノミクスの命題の原点をも探るという、ちょっと面白い読書体験をすることができたのでした。

さて、本書は序章的にクリントン政権誕生時の米国における政治的争点を概観し、ついで著者の米国留学から永住までのいきさつをざっと振り返った上で、学者らしく日米両国の学生気質と大学組織の違いを紹介し、ついで二重社会(主に所得格差だがそこに人種問題が絡む)であり訴訟社会である米国と消費者軽視の社会である日本のそれぞれの課題を論じてから、執筆当時の日米貿易摩擦とそこからの共生の見通しへと筆を進めています。著者は執筆時点から本書を英訳して米国人読者にも読ませることを想定して書いており、総じて日本的なるものに対し辛辣ですが、それでも米国礼賛には決してならないフェアな立ち位置から叙述されています。

ここでは、そうした著者の構成した文脈にはとらわれずに、主に日米メンタリティ比較の部分に着目しながら読書中に付箋を貼ったところを、順不同でいくつか紹介してみようと思います。なお、太字の部分は本書の記述からとったものですが、完全な引用ではなく多少文章を丸めています。そして矢印以下のコメントは私の私見です。

  1. 米国人はいかに相手にコミュニケイトするかを子供の時から鍛えられている。対立する必要のない相手には外交的に振舞い、利害が対立すれば徹底的に相手をやっつけるという具合に和戦両用に逞しい。
    →この話の前段として、大統領選が(実質的に)直接選挙制であることを反映して、米国の政治家は直接民衆に語りかけるため弁舌の限りを尽くす(大統領候補を応援するだけでなく、自分の再選や、あるいは次に自分が大統領選に立候補するときに向けて)という話が出てきます。菅義偉総理大臣が、実務的にはどれだけ頑張っていても国民とのコミュニケーションに成功していなかった姿を見ると、残念に思います。
  2. 日本人には、自分の思考を限られた時間的制約や字数の制約の中ではっきりと表明する訓練が概して欠けている。そして議論しながらお互いの発想を伸ばしていくという習慣に乏しい。日本人の会議では、往々にして司会の権限がまったく発揮されず、まだるっこしく長く話す人のために他の人が十分に意見を述べる機会がなくなることが極めて多い。
    →これはよくわかります。日本の各種カンファレンスで取り入れられるパネルディスカッションでは、パネラーが各自勝手に自分の意見を言っているだけでディスカッションになっておらず、モデレータは発言の順番を割り当てるだけという場合が少なくありません。
  3. あいまいさを許し、微妙な感情のニュアンスを許す表現は日本語の長所だが、社会科学に用いられる表現は他の国語に訳した時にも明確に理解しうるものでなければならない。しかし、そのような文体を自ら確立することは至難の業である。
    →PowerPointを用いて行われる「なんとなくわかったような」プレゼンテーションも同様。堅牢なロジックと緻密な叙述を用いて主張を文章に組み上げる作業は、難しいけれど面白い(ただしこのブログはそこまでの厳格性を追求してはいません。為念)。
  4. アメリカのようにお互いに権利を主張しあって、ぎくしゃくしながら弱者(例えば製造物責任を追及しようとする消費者)を守っていこうとする社会と、まあまあということで争いを少なくして、紛争処理費用も少なくしていく日本のような社会の、どちらがいいかは難しい選択である。しかし、訴訟社会の良い側面として、知的所有権保護は知的活動を活発にする法律的な役割を持っている。
    →ローレンス・レッシグらによってクリエイティブ・コモンズの概念が確立するのは21世紀に入ってから。もっとも、私自身はこの考え方に懐疑的(筆者の記述に賛成)です。
  5. アメリカの資本主義観の根本には「市場経済は一つのゲームであって、人々は一定のルールに従って、それぞれの創意に従い努力する。公正なルールに従って生存競争が行われることが重要」という考えがある。日本においては「一応ルールは建前としてあるけれども、事情によって不運な人が出てきた場合には手を差し伸べて、結果の公正も考えグループの長期的な関係を保っていく」という考え方があるように思われる。
    →本書執筆当時、証券会社による「損失補填」が大きな問題となっていましたが、これは「結果の公正」をもたらすものではなさそう。
  6. (米国人から見ると)日本人は何を考えているかわからない。無表情で皆同じように行動し、ときどき微笑するだけである。サイレント、スマイリング、スリーピングの3Sジェントルマンというのが、日本紳士に関するジョークである
    →これもわかる。というより、今でも「3Sジェントルマン」は身近なところにいくらでも存在します。なお、この点に関して筆者は、中曽根・宮沢両首相の対外コミュニケーション能力を高く評価しています。

本書が書かれた時代を反映して、レーガン、ブッシュと続いた共和党政権の政策により都市の一部に貧困、犯罪、麻薬といった社会問題や家庭環境・教育の荒廃がもたらされた米国の二重社会を自身の身近な体験を交えながら憂えつつ、目線を日本に転じて大蔵省のオールマイティへの嫌悪を表明し、認可行政の下での米価・電話料金・航空運賃の高止まりや小売業の非効率性の保護により蒙っている消費者の不利益を指摘し、そしてバブル崩壊後の金融的混乱に対し銀行や証券会社に行き過ぎの点があったとしても、金融政策の番人の責任はもっと大きいと明確に指弾する筆者の舌鋒は鋭いものがありますが、文体自体はマイルド。これらの指摘の妥当性はその後の規制緩和の歩みや大蔵省の財務省への改組(2001年)などによって証明されているように思いますが、ただし筆者が21世紀初頭まで続く「失われた10年」までも見通していたかどうかはわかりません。

こうした点はさておき、上でいくつか紹介した日本人のメンタリティに関する指摘は、本書発行後四半世紀以上がたった現在でもほぼそのままあてはまるように感じられて、たいへん興味深いものがありました。