松原

私の最初の職場でお世話になった大先輩M山さんと、今年めでたく退官した元同僚E元氏、それに私の3人が、やはり同じ釜の飯を食った中で現在ただ1人現役のI原くんの赴任先である盛岡に集合して旧交を温める機会を持ちました。

2022/09/28

新幹線で盛岡駅に降り立つと、彼方には岩手山の雄大な姿が!あの山に登ったのは1990年のことです。

この日は夕方集合して食事をするだけですが、それではもったいないので少し早めに盛岡入りして市内を歩き回ることにしました。コンセプトは、前九年の役で滅びた安倍氏にゆかりの地の探訪です。

天昌寺

前九年の役で安倍氏が最後の拠点とし、そして滅びた厨川柵はこの天昌寺から北上川畔にかけての広い地域であったと考えられており、このあたりは小高い台地状になっています。

山門の左手には「貞任園」と名付けられた塔が建っていますが、その由来・趣旨は不明です。

曹洞宗の寺院らしくさっぱりしたつくりの境内には安倍氏を偲ばせる遺構は何もありませんが、紫陽花に隠されかけた説明板にはやはりこの地が厨川柵に擬されていることが記されていました。

寺の裏手にある盛岡市道を次なる目的地に向かって東北東へと歩いていくと、線路を越えた先に出てきた地名は「前九年一丁目」や「前九年橋」。この地名は2004年に仕事で盛岡に来たときにも見て驚いたことを覚えています。

敵見ヶ森

前九年三丁目に達すると、巨大な枝振りを広げる欅の木が遠目にも何やら由緒ありげな気配を感じさせます。

これは見事な……と見惚れつつ近づくと、この一角がかつて安倍氏が櫓を組んで物見をしたという敵見ヶ森でした。

案内板の字は消えかかっていて判読しにくいですが、戦の際に安倍貞任の奥方が女たちを連れて櫓に登り歌い踊って味方を鼓舞したという趣旨のことが書かれていました。また、Googleマップ上ではここは「敵見ケ森稲荷神社」とあるので入口の笹をかき分けて階段を上がってみたところ、かつて祠があったと思われる場所はテントを張るのに好適なただの平地になっていました。

安倍館遺跡

待ち合わせの時刻までゆとりがなくなってきました。ちょっと早足になってお隣の安倍館町へ移動し、安倍館遺跡を見学します。

上述の通り、厨川柵は先ほどの天昌寺からこのあたりまで広がっていたと考えられています。天昌寺からここまで、直線距離にしておよそ3kmです。

堀の跡が残っていますが、残念ながら(?)これは安倍氏のものではなく、文治年間の源頼朝による奥州藤原氏討伐の後に地頭に任ぜられた工藤氏の厨川城の遺構だそう。この城は400年間この地の統治の拠点として使用された後、豊臣秀吉の命令により破却されたものです。

堀の中は六つに区画され、北から順に勾当館・外館・北館・本丸・中館・南館とされていましたが、その本丸にあたる場所に厨川八幡宮の祠がひっそりと建っていました。

厨川八幡宮から少し離れた南側(中館あたり?)には朱色の鮮やかな安倍館稲荷神社と落ち着いた佇まいの貞任宗任神社。安倍貞任は藤原経清と共に前九年の役を戦った安倍氏の頭領であり、宗任は貞任の弟です。もちろん前九年の役からかけ離れた時代に建立されたものだろうとは思いますが、それでもこの貞任宗任神社はこの日回った遺構の中で最も安倍氏の存在を実感させるポイントでした。


最後は駆け足になって上記の遺構・神社を巡り、タクシーを呼んで滑り込みで待ち合わせに間に合いました。

久しぶりに会った先輩・仲間たちとの会食は懐かしく、そしてすこぶる楽しいものでした。私が最初の職場にいたのは22歳から31歳までの間のことでしたが、あれから30年以上がたっていても、お互いの触れ合い方には何の変化もありません。それだけ、公私共に濃密な付き合いをしていたということなのだろうと思います。

2022/09/29

M山先輩は早朝の飛行機で次なる目的地・北海道へ発ち、残る3人はE元氏の希望により、たまたまこの日は会議等が入っていないというI原くんに案内をお願いして(大変恐縮です)陸前高田の「奇跡の一本松」を見に行くことにしました。

途中、I原くんの運転免許証がなぜか金色から青色に変化するという不思議な化学現象(笑)に見舞われつつも、盛岡から2時間半のドライブで着いたのは高田松原津波復興記念公演です。

17世紀から植林を重ねて防潮林であるとともに景勝地としても知られていた高田松原は、2011年3月の東日本大地震に伴う高さ10m超の津波によってほぼ全てがなぎ倒されてしまいました。その際に1本だけ奇跡的に残った松が「奇跡の一本松」として知られることとなったのですが、残念ながらこの松も同年中には枯死してしまいます。しかし、この松を復興のシンボルとして残す方策が検討された結果、幹を分割して中心をくり抜き金属製の心棒を通して再設置する(ただし枝葉は複製)ことによりモニュメントとしての役割を維持することとなりました。

2013年7月に完成を見た一本松。確かに、この1本だけが津波に耐えて残ったというのは奇跡のように思えます。

この松が倒されなかった理由の一つは、前面にあった陸前高田ユースホステルが津波の直撃を防ぐ役目を果たしたからだと考えられており、そのユースホステルの建物も破壊された姿で保存されています。

ユースホステル跡の横を通って堤防の上に出ると、目の前には海が広がりました。そして4万本の小さな松が新たな高田松原を作っているさまを見ることもできましたが、この松原がかつての姿を取り戻すまでには50年はかかると言われているそうです。

海に背を向けて、東日本大震災津波伝承館「いわてTSUNAMIメモリアル」へ向かいます。

伝承館の中には、津波の傷跡が生々しく残る遺物もあれば、映像を通じて「あの日」を紹介するコーナーもあっていずれも言葉を失いますが、さらに見応えがあったのは震災に直面したときの人々の行動を紹介するコーナーでした。法令違反を知りながら現場判断で無線を運用した事例もあれば、毎年の災対訓練の蓄積が活かされた事例もあり、自然災害に立ち向かう人間の力に対する希望をかき立ててくれます。

お昼ごはんは近くの「鶴亀鮨」へ。ありし日の一本松の写真に見入ってからにぎり鮨をおいしくいただきましたが、この店があるあたりのきれいに区画整理された様子も、津波が一才合切をなぎ払った跡だということを考えると恐ろしいものがあります。

陸前高田での見学はこれで終わり、盛岡へ戻ります。その途中では……。

中央遠くにきれいな山容を見せているのは早池峰です。あの山はかつて登頂したときには展望に恵まれなかったので、いつかもう一度登ってみたいと思い続けています。

さらに盛岡市街が近づくと、前方左には岩手山、右には姫神山が見えてきました。この構図を見れば、盛岡は岳都だということがよくわかります。

こうして、慌ただしくも実り多い岩手県への旅を終えました。次はぜひ、M山先輩の地元である宮崎で!