指環

2013/09/12

同僚たちとのお酒の席で何かのはずみに話題が古代ユダヤのダヴィデ王の話になり(なぜそうなったかは酔っぱらっていたので記憶にありません)、ダヴィデの子はソロモン→ソロモンは魔法の指環で精霊や動物の声を聞き操ることができた、という連想ゲームがつながってそのとき一緒に呑んでいた同僚F女史から借りることになったのが、ノーベル医学・生理学賞受賞者であるコンラート・ローレンツの『ソロモンの指環』(1949年)です。大学で心理学を学んでいたF女史は、この本を学生のときに買い求め、以来ずっと手元に置き続けてきたのだそうですが、30年前の本とは思えないほどの傷みの少なさに、この本がいかに大事に扱われてきたかが窺えます。

さて、この本は「動物行動学入門」と副題がついているように、著者が自分の実生活の中でさまざまな動物たちと文字通り寝食を共にしながら、動物の心と行動への理解を深めてゆく様子を描いたもので、学術書っぽくもあればエッセイ風でもあり、いたって真面目な研究と観察を綴っているのにどこかユーモアが含まれている、そんな本でした。そこで紹介される動物たちは、たとえば水槽の中の殺戮者であるゲンゴロウの幼虫、美しいひれで華麗な闘争ダンスを繰り広げるトウギョ、著者と深い友情で結ばれたコクマルガラスのチョック、生まれたときに初めて見た動物である著者が母親であると刷り込まれたガンの子マルティナなど。

著者は科学者らしい厳格な態度を維持し、これらの生き物をいたずらに擬人化することはしません(その代わり挿絵に描かれた動物たちは相当に人間的)が、「ソロモンの指環」を使わなくても動物の気持ちはわかると自ら書くだけあって、主人の足元におとなしくねそべっているシェパードのティトーが時折チラッと見せる眼の中に「いつになったら私を散歩につれてってくれるんです?」というメッセージを読み取ることができたようです。

そうした個々のエピソードと共に、動物を飼うならどういう動物がいいか、動物園で暮らす動物たちがいかに哀れであるか、という点への言及も著者は忘れていませんが、この本に書かれているように動物たちと深い親交を維持するためには、主人公自身がそうであったように危ない目にも遭わなければなりません。子ガモたちを散歩させるために腰をかがめてゲッゲッゲッとわめき続けながら草地の中をゴソゴソ歩き回ったり、コクマルガラスのヒナの子に足環をはめるために悪魔の衣裳で変装して屋根の上を徘徊したり、空高く舞い飛ぶオウムを呼び寄せるために人混みの中で突如「オエー、オエー」と叫んだりして人々を驚かせ続けた著者が精神病院送りを免れたのは、少なくとも人に危害を加える人物ではないという信用をかろうじて得ていたからに過ぎなかったそうです。

終章で筆者がとりあげるのは、最も凶暴な猛獣であるオオカミの闘争の場面において、敗者が観念して急所である首筋を差し出したときには勝者はそれ以上の攻撃を行わない(行えない)という騎士道的な作法。では人類は、われわれの創造物で滅亡させぬための抑制を獲得できているだろうか?と著者は問いかけます。少なくとも、オオカミがそうであるようには人類の「本能」は信頼しきれるものではない、と著者は考えているようですが、そうしたシニカルな目線はこの本の中では極めて例外的で、全編を貫いているのは動物たちの本能への洞察と深い愛情。訳文も落ち着いた文体の中に著者の個性を上手に伝えていて、読んでいて気持ちのよい本でした。