竪琴

2002/03/24

書店で別の本を探しているときにふと目に止まったのが『ビルマの竪琴』(竹山道雄)。これは小学生のときに読んでいるから、今からウン十年前の思い出の本です。そういえば、『ビルマの竪琴』はビルマの人には評判が悪いという話を聞いていたのを思い出し、どれどれと再読してみることにしました。

この作品は2度映画になっているので知っている人も多いはずですが、ビルマ戦線で「うたう部隊」と言われたある部隊の上等兵・水島が、終戦を知らずに抵抗を続ける友軍の部隊に投降を勧めるために戦地に赴いたまま行方不明になり、捕虜収容所で待つ元の部隊の皆はやきもきするものの、やがて彼等の帰国の日に水島からの手紙が届いて、彼がビルマの僧となって各地に斃れたままの日本兵の遺体を弔うためこの国に留まる決意をしたことを知る、というストーリーです。

私もビルマ=ミャンマーには昨年の5月に訪れているので、いくらかは実感をもって読めるだろうとこの本を通勤のポケットに入れて持ち歩いたのですが、確かにいくつかの面で「?」と思う面もないではありません。

まず、主人公の水島は高位の僧であることを示す腕輪をし、肩に青い鸚哥を乗せ、竪琴を弾いていますが、ミャンマーの僧侶はあらゆる快楽から身を遠ざけなければならず、女性に触れることができないのはもとより、装飾品も身につけないし、鳥を肩にとめたり楽器を弾くなどもってのほか。また、投降勧奨の際に負傷して気を失った主人公を介抱してくれた部族はヒルトライブ(山岳民族。初出の頃は「カチン族」と明記されていたそう)ですが、ビルマのヒルトライブに食人の習慣があるという話は聞いたことがありません。ナッ神(文中では「ナット」)を原初的なアニミズムのように記述していますが、ナッ神には明確な名前と人格があり、木や石に宿るような精霊とは違うはず。地理的にもちょっとつじつまが合いません。「うたう部隊」は山一つ越えればタイに逃げ込めるという地点で武装解除され、主人公はそこから徒歩で半日のところで抵抗部隊を説得工作中に負傷して気を失うのですから、当然その位置はビルマの東にあたるシャンやカレンなどの地でなければなりませんが、カチン族の住処はビルマでももっとも北部で、タイとは国境を接していません。そして何より、ビルマの人々はいつもにこにことしてめんどうなことはいっさい仏様におまかせしており、弱くまずしいけれども、ここにあるのは、花と、音楽と、あきらめと、日光と、仏様と、微笑と……と描かれている点。確かにミャンマーの人々は敬虔な仏教徒で寺院と僧侶を大切にし、いつも微笑みをたたえていますが、一方で歴史的には16世紀から18世紀にかけてアユタヤやチェンマイ、ルアンプラバン、ビエンチャンなどを征服し、19世紀にはイギリス軍と3次にわたる戦争を戦った軍事大国でもあったのです。

とまぁ、非常に不純な動機で『ビルマの竪琴』を読んだのですが、筆者自身が私はビルマに行ったことがありませんとか物語が世にでた後になってからビルマに関する本をかなり読みましたが、それで見ると、具体的な点ではまちがっているところがいくつもあることが分りましたと明言しているのですから、揚げ足をとるような読み方をしても何の意味もありません。それよりも意外に思ったのは、物語の中で捕虜収容所に入れられた「うたう部隊」は納骨堂建設に従事するのですが、その納骨堂は泰緬鉄道の工事に従事して亡くなったイギリス兵の遺骨を納めるためのものとされていたことです。「戦場にかける橋」で有名になった泰緬鉄道のエピソードが、この本が書かれた昭和21〜23年頃に既に著者の知るところとなっていたのは、あるいは東京裁判でも取り上げられていたからでしょうか。

さて、この本を読んで最後に思い出したのは、バガンの寺院で見た日本兵の墓標でした。その寺院の僧侶は我々を招じ入れ、砂糖菓子とお茶をふるまいながら、戦没者名簿を見せてくれました。あのときの厳粛な気持ちは今も忘れられないし、できれば今年の年末にはもう一度ミャンマーに行き、あの寺院を訪ねてみたいものです。