視覚

2002/06/01

『脳は美をいかに感じるか』(セミール・ゼキ著 / 河内十郎監訳)は、視覚脳の能動性を「脳は視覚世界の知識を探究する過程で、捨て、選択し、選択した情報を蓄積されている記録と比較することにより、脳の中に視覚像を生み出す」とまず定義した上で、視覚脳の各部位の機能とさまざまなアートとの関連を解き明かして、我々が美を見、感じるときに視覚脳がどのように機能しているかを明らかにしており、なかなか興味深い本でした。

例えば、視覚脳は外界を「あるがままに」受け入れているわけではなく、視覚というハードウェアを通じて獲得した情報の中から不変の特徴をとらえて、それを解釈するという作業を行っています。そのことの逆説的な例証としてとりあげられているのがフェルメールの作品で、卓越した写実能力を発揮して描かれたフェルメールの絵画の多くは、そこに描かれた情景の意味が見る者の主観によっていく通りにも解釈されうる曖昧さをもっており、無気味で神秘的な雰囲気を備えています。つまり、筆者の言葉を借りればフェルメールの絵画は同一のカンバス上に一つの真実ではなく複数の同等に有効な真実を同時に表現する絵画であり、フェルメールが自分の卓越した技術をまさにそのことによって心理的な力を獲得することに用いた点にこそ、フェルメールの特筆すべき特徴があるということになります。

このような脳の機能に対する挑戦として、たとえばマグリットの意表をつく見せかけの提示やキュビズムによる移動する複数の視点の一元化の試みがとりあげられた上で、今度は脳の処理システムをそのモジュール性の面から分解し、それぞれの機能と美術作品との関係を解き明かしていきます。すなわち、大脳の後方下部に集まっている視覚脳を、眼からの視覚情報を受け止め各領野に分配する一次視覚野(V1)とその周辺部をなすV2、対象の形(線の傾きなど)とその動く方向に選択性を示すV3、色彩を分類するV4、対象の運動に反応し静止には関心を示さないV5という具合に場所的にも機能的にも分類した上で、モンドリアンの抽象絵画、モビールなどのように動きをとりいれたキネティック・アート、一つの建物を題材に異なる時間と異なる気象条件の下での光の色彩効果を追究したモネの連作「ルーアン大聖堂」を、視覚脳はどのように受け止めているかという分析は、まるでパズルを解いていくかのような面白みがあってひきつけられました。

それにしても、脳の働きの精妙さには今さらながら感嘆させられます。対象の形・色・動きを並列処理で把握し、それを記憶の中に蓄積し、あるいは過去の記憶と参照して判断を加えるという作業を、まさしく瞬時に行ってのけているのですから。そして、過去の革新的な画家たちは、実はこうした脳の機能を、美術という手段を通じてさまざまな角度から探究しようとしていたのかもしれません。