執心
2014/02/08
年が明けてからの読書は、まず白州正子さんの能楽関係の本を2冊続けて読みました。
『世阿弥』は「風姿花伝」や「申楽談儀」などの十六部集を素材に、世阿弥の生涯を辿りながら著者の能楽に対する思いを綴るもの、『能の物語』は「井筒」「敦盛」「隈田川」等の謡曲21篇を現代語の物語に超訳したもの。著者の人柄に触れるなら前者、さまざまな曲のストーリーを頭に入れたいなら後者ということに一応はなりますが、文体そのものに白州正子さんの個性が表れているので、どちらをとっても独特の世界に引き込まれます。
ところで、謡曲の形式には大まかに分けると現在能と夢幻能があり、「熊野」「隅田川」などは現在進行形でストーリーが展開する現在能ということになりますが、「井筒」「敦盛」などは亡霊の回想と成仏の希求が主題となる夢幻能。最も能らしい形式と言ってよいでしょう。中でも舞台が前場と後場に分かれる複式夢幻能では、前場でまず旅僧が登場して土地で出会った者と会話を交わすうちに、その者が実は幽霊であったことが明かされ、後場ではその旅僧の夢の中に幽霊の本体(紀有常の娘であったり、平敦盛であったり)が登場してこの世に執着する気持ちを訴え、成仏の助けを求めるという話の流れになります。
現世に対する執着の心=執心は、たとえばこの世に残した愛しい人への気持ちであったり、成就しなかった恋への無念であったり、非業の死を強いられた己の運命への嘆きであったりしますが、こうした執心によって成仏が妨げられていた幽霊が執心の由来を語り舞うところがその曲のクライマックスとなります。やがて旅僧の読経によって仏の慈悲にすがることができた幽霊が夜明けを迎えて感謝の言葉を残しつつ去ると共に旅僧の夢は覚め、旅僧はその地を発って再び旅を続けてゆくことで舞台からすべての登場人物が消えて、一曲が終了するというのが基本パターンです。
幽霊が執心を語る場面はどの曲でもなかなかにおどろおどろしく、たとえば口封じのために殺された漁夫の若者の霊の台詞憂しや思ひ出でじ、忘れんと思ふ心こそ、忘れぬよりは思ひなれ
(藤戸)は「(無念を)忘れようとする心の方が、忘れられないことよりつらい」と海よりも深い苦しみを滲み出させて共感できるものがありますが、小野小町への恋情が通じず遂に命を落とした深草少将の台詞さらば煩悩の犬となつて、打たるると離れじ
(通小町)に至ってはその執着のあまりの直截さに戦慄すら覚えます。しかし、最も悲痛なのは三卑賤の一つ「善知鳥」でしょう。猟によって生き物を殺すことを生業とする主人公が、あの世でも鳥を獲ることの面白さに取り憑かれて成仏することができずに地獄の苦しみを味わい続け、最後は旅僧に救いを求めながら願いも空しく消えてゆくというエンディング。成就することのない救済、その罪の深みから抜け出せない業というテーマは、とりわけ心に響くものがあります。
……といったところをマクラにしつつ、土曜日の午後は日吉の「ビッグロック」でよっこさん・トモミさん・チオちゃんと紐の稽古。
この日の南関東は気象庁から警報が出るほどの大雪で、道すがらの光景も一変していました。
そのために、いつもは大賑わいの「ビッグロック」も比較的閑散としていましたが、私たちのセッションはいつの間にかルーフ祭りの様相を呈していました。
執着する気持ち、諦めない気持ちは、何につけても大切ですね。