二河

2014/06/24

白洲正子さんの『西行』を読んだことをきっかけに取り組み始めた西行研究。まず岩波新書の『西行』で体系的な知識を得ておいてから、続いて読んだのが瀬戸内寂聴さんの『白道』でした。

実は、これは小説なのだろうと思って購入したのですが、ふたを開けてみればそうではなく、寂聴さん自身の西行追体験の記録でした。つまり、西行の生涯を記録や先行する書籍の中に追い、西行が訪ねた各地を寂聴さんも訪問し、そして歌と詞書の中から西行の心を読む、という構成です。おや?と思った人は鋭い。そう、先月読んだ白洲正子さんの『西行』をなぞるような作りになっていて、『白道』の中でも何度か、白洲正子さんに対する言及が見られます。

しかし、それでは単なる同工異曲なのかと言えばさにあらず。自身が天台の僧侶として嵯峨野に庵を結び、なおかつ練達の文士でもある寂聴さんの筆が紡ぎ出す文章は、どこまでも柔らかく美しく品があります。たとえば、本書の冒頭はこんなふうにして始まります。

花園という美しい名の町がある。

京都の嵯峨の入口、双ヶ丘の東麓一帯で、昔はこの辺りまで嵯峨野と呼ばれていた。

四季それぞれ可憐な野草の花に彩られていたからこの地名が生れたという。嵯峨野の野草は、春よりも秋がなつかしい。萩、薄、葛、瞿麦、女郎花、藤袴、桔梗などの秋の七草の他にも、竜胆の瑠璃や曼珠沙華の朱が彩る花野が、目路はろばろと広がる風景の中、さぞかし風まで染まり匂いたっていたことだろう。

西行の出家の動機については、寂聴さんもまた白洲正子さんと同じように待賢門院璋子への道ならぬ恋の破れに求めています。そして、西行の歌におびただしく歌われる桜花や月は待賢門院の象徴であり、そのことをたとえば次の歌にも見てとっています。

春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

おもかげのわすらるまじき別かな 名残を人の月にとどめて

自らも道ならぬ恋に身を焦がしてきた筆者の述懐がそこにほんの一瞬重なるものの、西行の跡を訪ねる寂聴さんの旅はその後も京都から吉野へ、あるいは熊野路、奥州路、讃岐路へと続きますが、とりわけ思い入れ深く描かれているのは、崇徳院の跡を訪ねた讃岐の紀行です。保元の乱に破れて讃岐に流された崇徳院は、配流先で非業の死を遂げますが、生前に院と深い交わりを持っていたはずの西行が讃岐を訪れるのは、院の崩御後四年がたってから。

世の中を背く便りやなからまし 憂き折節に君逢はずして

こんなひどい悲しい目におあいにならなかったならば、出家して仏道に入るというようなあり難い発願もなさらなかったことでしょう。

書きながら、西行は自分の文章も歌も、空疎でやりきれなくなる。

こんな、誰の目にふれても大過のないようななまぬるい慰めの手紙を、今の院が欲している筈があろうか。

ここまで内省的な西行像を描けるのは、寂聴さんをおいて他にいないかもしれません。そして、白峯山の崇徳院陵墓の前にぬかずいて夜をこめて読経する西行に、寂聴さんは崇徳院の姿を見せるばかりでなく、待賢門院の西行、待ちわびていましたよという限りなく懐かしい声を聴かせるのです。

時に寂聴さんの心理が西行の述懐として溶け合う場面は、夢幻能を観るような味わいがあります。本書の終わり近く、小夜の中山を西行が2度目に越えたときと同じ69歳になって、寂聴さんもまた小夜の中山を越えながら、その心はいつの間にか西行のものとなっていきます。

あれから、この年までに、何とおびただしいなつかしい人々が自分を残して死んでいったことか。

あのお方をはじめとし、鳥羽院、崇徳院、西住、寂然、あのお方の思い出を語りあえた堀河の局や兵衛の局たち、それに清盛……今度の動乱で数限りなく戦死していった有縁無縁の人々の数……

〔中略〕

今にしてわかる。生きるということは、この世で限りなくものとの別れに出逢い、賽の河原の石のように、自分のまわりに一つずつ別れのしるしの石を積み重ねていくことだったのだ。そして、自分にとっては、その石が歌だったのかもしれぬ。

そして、有名な富士の煙の歌風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかなを引きながら、西行に次のように述懐させて、著者の旅は西行示寂の地である弘川寺で終わります。
視つめても視つめても、心は煙のように捕えどころなく、はては蒼穹に消え去るあの煙のように行方さえはかなくなってしまう。 七十年生きて、わが心一つがついに捕えきれないということを、わが心がようやく悟った。それが自分が歌に賭けた答えだったのだ。

「白道」というタイトルの意味は、本書のどこにも書かれていません。想像されるのは、火水両河の間にあって極楽浄土に通じる白い道=二河白道のこと。恋に破れたあらぶる心から逃れるように出家してのち歌に生き、ついに悟りを得て起請をもって詠歌を捨てるに至った西行の生涯を喩えたのかもしれません。ともあれ、寂聴さんの美文にほれぼれとしつつ、深い味わいを覚えながら読み終えることができました。