絶滅

2016/07/23

川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』読了。彼女の作品はずいぶん前に読んだことがありますが、むしろ日本経済新聞(だったか?)に連載されていたエッセイに心惹かれ、等身大の柔らかい文体を使う人、という印象でした。

その印象は、本書の書き出しの今日は湯浴みにゆきましょう、と行子さんが言ったので、みんなでしたくをしたという一文を読んだときにも維持されて、なんとなく安心感を覚えたのですが、この最初の章《形見》を読み進めるうちに生後3カ月で幼稚園に上がる子供やさまざまな哺乳類から人間を作り出す工場の話が出てきて混乱していると、すぐに次の章《水仙》の書き出し今日、私がきたにひどく動揺させられます。その動揺は以後も続くのですが、それは前の章を読む中で理解できたと思ったこの世界の設定がところどころで微妙に覆されることによって増幅されています。

そのようにして、さまざまな内容を持った、多くは異なる人物による一人称の語りによる親密な雰囲気を漂わせた短編が積み重ねられていく中で、はるか未来の、人類がゆっくりと滅亡への道を辿りつつある時代の各段階の物語がそこに描かれていることが徐々にわかってきます。物語の中盤で登場するヤコブとイアンによる、人類の集団を分離させてそれぞれに隔絶させ、その中から生まれるかもしれない遺伝子の多様性とその後の交雑による進化によって人類という種を延命させようとする絶望的な試みは、「母(あるいは「大きな母」)や「見守り」による管理によって物語の前半ではうまくいっているかに思われましたが、後半でその管理体制が崩壊するさまが淡々と描かれた後は、人類の行く末に対する大きな諦観が物語を支配します。そうした中、超能力を備えた個体がその集団から排除される話がいくつか出てくるところには同調を強制する社会への冷ややかな眼差しが感じられますし、進化の可能性として高度な共感能力を獲得した集団(《みずうみ》)と合成代謝を行えるようになった集団(《Interview》)が生まれたものの、どちらも憎しみ、争う心を持たないこと自体が原因となって滅んでしまったという叙述は極めて皮肉です。

ところどころで後の章が前の章につながりながら、さまざまなエピソードが柔らかな生活感を伴って展開し、その一つ一つの登場人物に感情移入しているうちにいつの間にか数千年にも及ぶ長い年月が過ぎ去って、ついに人工知能の独白(《運命》)というかたちで、それまでの各章に描かれた世界の背後にあった計画とその経過が語られ、すべての謎に解決が与えられます。そして最終章《なぜなの、あたしのかみさま》では、人類が滅亡し「母」たちもその後を追った後の時代、「大きな母」と2人のクローンの娘エリとレマ(イエスの十字架上での言葉"Eli, Eli, Lema Sabachthani?"を想起)、そしてかつての人類の「気配」の4人だけの世界がエピローグとして描かれますが、エリによるクローン発生の試みが本書冒頭の《形見》の町につながったときには、作者が仕掛けた大きな円環構造の中に自分がずっと絡め取られていたことを知って強いショックを受けました。それでも、エリが作ったクローンの町からときどきは出て行く人間や動物たちに対してにせだってなんだって、生き延びて、そして新しい人類になれば、それでいいよというエリの言葉にはかすかな希望が、滅びてしまった人間たちのためにその救済を願うレマの祈りには人類への静謐な愛情がにじんでいることにほっとしながら、穏やかな気持ちで本書を読み終えることができました。読後感としては、レイ・ブラッドベリのファンタジックな『火星年代記』に近いかも。そういえば冒頭の今日は湯浴みにゆきましょうのくだりは『火星年代記』の終章「百万年ピクニック」の書出しに通じるものがあるようにも思います。

川上弘美がこうしたジャンルを書くというのは意外な感じがしましたが、では「こうしたジャンル」とは何かと言われるとSFというのも当たらない気がするしファンタジーというのともなんだか違う、不思議な世界観の物語でした。そして、この超未来の世界を描くのに川上弘美の文体がぴったりはまっていたというのも、実に不思議なことです。なお、最初の章《形見》は独立した短編として最初に発表され、その後著者がその発想を広げるかたちでその他の章を書き継いで本書が成立したという経緯があるそうです。