正史

2016/08/06

原武史『「昭和天皇実録」を読む』を読了。先月の同期会で『昭和天皇実録』の編纂に四半期にわたり取り組んできた梶田の話を聞いたことをきっかけに、まずは手っ取り早く買い求めたのがこの本です。と言うより『昭和天皇実録』は昭和天皇の事績を年代順に並べた正史なので、学者でもない限り、そのまま読んだだけではそこから何かを引き出すことは困難ですから、こうしたいわばフィルターを通じて昭和天皇の日々の背後に時代を読むしかありません。

本書は、次の章立てになっています。

  • 序論:「神」と「人間」の間 —何がよみとれるのか—
  • 第1講:幼少期の家庭環境 —明治時代—
  • 第2講:「和風」と「洋風」のはざまで —大正時代—
  • 第3講:実母との確執 —昭和戦前・戦中期—
  • 第4講:退位か改宗か —占領期—
  • 第5講:象徴天皇制の定着 —独立回復期—

そもそも皇居の中の日々というのがどういうものかということについての予備知識がないので、そこに書かれていることのすべてが目新しいことばかりなのですが、その中でもいくつかの点については驚きをもって読むことになりました。たとえば、歴代天皇の確定(神武、綏靖、安寧、威徳……というアレです)は意外に遅く昭和改元の直前で、このときに重要だったのは神功皇后が天皇として数えられないこととなったことですが、そこに、自らを神功皇后になぞらえて病気の大正天皇に代わり宮中にリーダーシップを発揮していた貞明皇后(昭和天皇の実母)を牽制しようとする裕仁皇太子の意図が読める(実際、歴代天皇確定の報告を受けた貞明皇后はその翌日に遺書を書いています)こと。それでも即位後の昭和天皇と皇太后との緊張関係は終戦まで続き、徹底抗戦を主張する皇太后に引きずられるように昭和天皇も一撃講和論(もう一度敵を叩いてからでなければ講和はできない)に固執したことが結果的に広島・長崎への原爆投下につながったこと。一方で、昭和天皇は戦前からキリスト教、とくにローマ法王庁のカトリックと接点を持っており、戦後も一時期までキリスト教と頻繁に接触していること。

特に最後の点を解説した第4講は本書の白眉で、昭和天皇の退位の可能性に言及することを避けている『昭和天皇実録』の記述を周辺の人物の日記・日誌で補うことによって、昭和天皇が終戦後に退位ないし改宗を検討していたことを明らかにしています。昭和天皇は、自身の戦争責任を背景に退位を検討していたことが『木戸幸一日記』に記されているのですが、その時点で明仁皇太子が未成年であることから摂政を立てざるを得ず、その場合に皇室典範を改正して皇太后が摂政となる可能性があることに危機感を抱いたようです。占領政策を円滑に遂行したいマッカーサーの意向もあり退位の可能性がなくなったとき、これに代わる責任のとり方として昭和天皇が考えたのが、宮中祭祀は継続しつつも神道を個人的に捨ててカトリックに改宗することでした。そこには、A級戦犯たちが自らの戦争責任の身代わりとなって裁かれていることへの贖罪意識と共に、アメリカと対抗できるチャネルをローマ法王庁との間に確保したいという政治的意図も含まれていたのではないかというのが著者の見立てです。しかし、1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、東京裁判の判決受入と引き換えの独立回復の一方で日米安全保障体制に日本が組み込まれたことで、退位、改宗のいずれの可能性もなくなりました。さらに同じ年、皇太后が亡くなったことで昭和天皇はいわば過去からの呪縛から解放され、以後、皇室の近代化と象徴天皇制の定着が進むことになります。

他にも興味深いエピソードが多々盛り込まれていましたが、新書サイズであることと講義録をもとにした口語体の文体であることから大変読みやすく、よい学習をすることができました。

昭和天皇が亡くなったのは1989年でしたが、1987年には既に膵臓ガンに犯されていることが判明していました。それでも翌年には一時的に体調が回復していましたが、その年の9月に吐血し、以後好転することはありませんでした。1988年9月下旬に初めて槍ヶ岳に登ったときに、槍ヶ岳山荘のテレビで昭和天皇の容態悪化のニュースが流れていて宿泊客たちが食い入るように画面を見つめていたことを、今でも鮮明に覚えています。