少子

2016/11/17

中野信子著『努力不要論』を読了。今月の始めに同氏の講演を聞いて関心を持ち、いくつからある著作の中から最も読みやすそうなものとして選んだのがこの本でした。

読みやすい=ボリュームがさほどないということなので、章立てに沿ってポイントを抜き出してみます。

  • プロローグ:「努力すれば報われる」は本当か?
    • 「努力は報われる」は半分は本当。脳も筋肉も、あるレベルのパフォーマンスを実現し維持するには相応の負荷=努力をかけなければならない。しかし遺伝的に決まっている才能(エジソンのひらめき脳やウサイン・ボルトの骨格・筋肉のつくり)がなければ結局目標には到達しない。したがって「努力は報われる」は半分は美しいウソに過ぎない。
    • 資質があり努力をしていても報われていないとすれば、努力をしていると思い込んでいるだけか、努力の方向が間違っていたかのどちらか。自分が何をしたいのか、そのためにどうすればいいのか、それを知るための努力が本当に必要な努力だ。
  • 第1章:努力は人間をダメにする
    • 報われる努力の方法とは、目標と、それを達成するための戦略を立てて、タスクを一つ一つ処理してゆくことに尽きる。
    • 戦略を立てず、「努力している自分」に喜びを感じている人は、倫理的に悪いことをする傾向が高い。ヒトには我慢の量の限界があり、脳が「自分はこれだけ正しいことをしたんだから許される」と言い訳をしてしまうから。つまり、努力は人間をスポイルする。実はこれは、ブラック企業のレトリックでもある。
  • 第2章:そもそも日本人にとって努力とはなにか?
    • 結果が出ないとわかっているのに、努力すればなんとかなるのではないかと理不尽な期待をする非合理的な精神=努力信仰が、太平洋戦争での敗戦の原因。
    • 働かず、役に立たないと思われる人たち(「電車の中で泣きわめく赤ちゃん」「妊婦」「子連れの母」「育休をとる父親」も)が排除される傾向が年々強くなっているが、「働いて役に立つ」努力とは野蛮。「役に立つ歯車になろう」と努力して楽しいのか?
    • 日本人に努力中毒が多く、欧米人に少ないのは、「幸せホルモン」とも呼ばれるセロトニンを再取り込みするセロトニントランスポーターが日本人は遺伝的に少ないから。そのために日本人は、努力をしていないと不安になってしまう。
  • 第3章:努力が報われないのは社会のせい?
    • 努力が報われない「格差社会」幻想があるが、日本は世界各国と比較して社会経済的な格差が小さいことはジニ係数の比較から明らか。格差のせいにしたい気持ちはわかるが、格差のせいにしたらおしまいである。
    • 現代日本は、格差はないがストレスもなく、リスクを回避する方向に意思決定をしようとする社会。子作りどころか恋愛すらも面倒くさがる、生きる力を失った社会。
  • 第4章:才能の不都合な真実
    • 成功者に対する妬みの感情は、進化心理学的には集団の協力構造を逸脱する個体を排除しようとする機能である。セロトニン・トランスポーターの量が遺伝的に少ない日本人はこの感情を感じやすく、特にもともとの才能の不足を努力で補ってきた人は、他人の才能を潰しにかかる傾向が強い。
    • 日本の少子化の原因は、経済的な理由ではなく、子を持たない人々が子を持つ人々を妬み排除しようとする社会のありようにある。
  • 第5章:あなたの才能の見つけ方
    • 才能のあるなしは、自分の適性を知り、評価軸を確立することができるかどうかで決まる。性格俳優の存在が、そのよい例。
    • 自分を再評価し、自分の資質に即した目標を立て、勝負の仕方を考えてゆけばよい。
  • 第6章:意志力は夢を叶える原動力
    • 目標に向かって立てた戦略に沿って自制しながらタスクをこなす能力=意思力は、前頭前野が発達した人間に顕著な特長。子供の頃に虐待を受けると、前頭前野の発達が妨げられる。
    • とはいえ、意思の力が弱く将来の利得を犠牲にして行動に移す方が生存にとった有利な場合もあると考えれば、意思力が低いことだけで悲観するにはあたらない。
    • 自分が今ここに生きているのは、自分の中に生存に有利な性質があるから。自分の能力に自信を持って、生き延び、子孫を残し、次世代に貢献してほしい。
  • エピローグ:努力をしない努力をしよう
    • 努力したことで報われたいと思うより、努力しないで生きようと考えることがむしろ大事。
    • 末期患者の後悔は「あんなに一生懸命は働かなくてもよかった」であることが多い。自分の気持ちに反した努力を続けて後悔しないように。

……とまあこんな感じ。エピローグを除けば『努力不要論』というタイトルは若干ファウル気味ですが、自発的な戦略に基づかない努力をするな、努力信仰にとらわれると人に操られることになるぞという論旨はある意味うなずけます。それにしても、ところどころに出てくる少子化への危機感や子供・母を排除しようとする現代日本社会の風潮への厳しい眼差しが不思議だと思っていたら、「あとがき」で筆者はこのように書いていました。少し長いですが、引用してみます(レイアウトの都合で改行場所は適宜変更しています)。

この本を執筆する中で、私が念頭に置いていたのは、日本における少子化問題のことです。これは、人口そのものが減ってしまうという問題でもあるのですが、その根っこには、子どもや妊婦や子育て中のお母さん・お父さんを「邪魔な人」「迷惑な存在」「お荷物」として排除しようとする、社会の冷たさが深く横たわっているように感じられてなりませんでした。

もちろん、妊娠している女性や、子育て中の親や、未成年の子どもは、多くの仕事において、そうでない大人たちほどのパフォーマンスを発揮できません。当たり前のことです。逃げ足も遅いし、天敵がいれば捕食の対象になる。肉体的にも脆弱で、病気にもかかりやすい。だから、ホモ・サピエンスは、集団をつくることで、そうした弱い個体を守ってきたのです。それが、次世代への貢献だったのです。子どもを産んで育てること、そして、その子と親たちをサポートすること。

長い間かけて進化してきたこのシステムが、どうして、現代日本では崩壊してしまったのでしょう?女性がマタニティマークをつけていると攻撃の対象となるから危険だと言われ、つけないことをすすめる助産師さんさえいるといいます。こんな種は、生物として狂っています。次世代を育む行動が妨害されれば、その集団はいずれ滅びる。私が書くまでもないことです。この冷たい狂気の裏側に、努力さえすれば、必ずもっと良くなるに違いないという思い、過剰な期待があるのです。自分は、今は恵まれないが、もっと努力すればもっといい暮らしができる。もっと努力すればもっと良くなるはずだ。無駄を許さず、遊びを省き、努力に努力を重ねればいつか成功できるはずだ……。

そんなふうにして得る“成功”とはいったい何でしょうか?子孫を犠牲にし、母たちを犠牲にし、自分のための豊かな日々を犠牲にして、そうしてたどり着く場所は虚構の城です。その虚構の城には、耳障りのいい言葉や華々しい成功譚に群がってくる人の努力を搾取している誰かが住んでいる……。

そのことに、気付いて欲しいと思います。

この問題意識には強く共感するのですが、努力信仰と出産・育児への冷淡さとがいまひとつしっくり結びつかない上に、もしこれが本書の執筆の動機であるのなら、本書のまえがきに上記を書いた上で、この冷たい狂気の由来を脳科学の知見をもって説明し、処方箋を書くということでもよかったようにも思います。もっとも、本書執筆の動機がそこまで思いつめたものとは思えませんし、学術論文ではなく一般向けの読み物なので脳科学の知見はごく限られたところにしか出てこず、全体の論理構成もラフと言えばラフ。そこが物足りないと感じる読者も多いでしょうけれど、読者よりも著者自身が肩肘張らずに書いた本という感じがして、私は好感を持ちました。