川越
2020/03/14
雨の予報の土曜日、することもないので前々から気になっていた川越観光に出掛けることにしました。川越は「小江戸」と呼ばれますが、もともと江戸時代に入るまでは武蔵国の中でも最重要都市で江戸以上の規模を誇り、戦災や震災を被らなかったので古い街並みがよく保存されていることがその由来です。
小川菊
荒川と入間川が合流する場所にあることから、川越には歴史あるうなぎ料理店がたくさんあるそう。そうした中から、文化4年(1807年)創業の「小川菊おがきく」を訪れました。
大正初期建築・木造3階建の店舗でいただくうな重(特上)のお味は絶品。上品なタレで焼いたふんわり柔らかいうなぎがご飯と絡み合って、あっという間に平らげてしまいました。かつては庶民のタンパク源であっただろううなぎも今ではおいそれと手が出せない価格帯に遠ざかってしまいましたが、このおいしさなら定期的に食べに来てもよいと思えるくらいです。
蔵造りの街並み
明治26年の川越大火で町の3分の1を焼失した後に、防火を意識した蔵造りの建物が建てられました。それが札の辻から仲町の間の通りに面して建ち並んでおり、小江戸としての川越のメインストリートとなっています。
「小川菊」から裏道を北上する途中にも、立派な洋館風の建物あり。これは歯医者さんでした。そして川越のシンボル「時の鐘」。江戸初期に川越藩主・酒井忠勝によって建てられた鐘つき堂で、現在の建物は川越大火直後の明治27年に再建されたもの。この下を通るときちょうど正午だったので、四方に響き渡る鐘の音を聴くことができました。
これが蔵造り。観光案内の冊子によれば川越の蔵造りの特徴は倉庫ではなく店蔵であること、そして「江戸黒」と呼ばれる江戸の町並みを模した、黒漆喰仕上げの壁が挙げられます。また、迫力ある瓦屋根に施された「箱棟」や「かげ盛り」も迫力を醸し出しています。さらに密閉性を高める「観音開き」の窓も目を引く構造の一つ
とのこと。確かにその通りの黒々とした店舗がずらりと並ぶさまは壮観ですが、「時の鐘」の前を通ってこの通りにぶつかったときに真っ先に目に入る散髪屋さんの屋号(?)が「銀巴里」とモダンなのに目を引かれました。
そんな中、こんな重厚な建物にも出会いましたが、なんとこれまた歯医者さん。川越市民の歯はずいぶんゴージャスな環境の中でケアされているようです。
冷たい雨をしのぐためにふらりと入った喫茶店もこうした風情。温かいコーヒーを飲みながら窓の外の雨をぼーっと眺めるのも悪くありません。
川越氷川神社
せっかく御朱印帳をバックパックの中に忍ばせてきたので、川越氷川神社を訪れることにしました。
武蔵野の最北端に位置するこの神社は、今から約1,500年前の欽明天皇2年に創建されたと伝えられ、素戔嗚尊・奇稲田姫命・脚摩乳命・手摩乳命・大己貴命の五柱の神を祀り夫婦円満・家庭円満の御利益がある模様。太田道真・道灌父子が川越城を築いた際にこの神社が城の戌亥の方角にあることから城の守護社として崇敬されたとされ、境内には「太田道灌手植えの矢竹」なるものもありました。
献歌老いらくの身をつみてこそ武蔵野の 草にいつまで残る白雪
そんな由緒正しい当社ですが、UFOキャッチャーよろしく吊り上げる「一年安鯛みくじ」だのインスタ映えしそうな絵馬トンネルだのといったアトラクションもあって、関係者のマーケティングセンスには脱帽です。
喜多院
雨がはっきりと雪模様に変わってきたので早々に退散しようと思いましたが、ちょうどバスで川越駅へ向かう途中に喜多院があるので立ち寄りました。
川越大師の別名で知られる天台宗の寺院・喜多院は当寺は天長7年(830年)に淳和天皇の命で慈覚大師・円仁が建立した無量寿寺に、慶長4年(1599年)に徳川家との関係が深かった天海僧正が住職として入寺して寺号を喜多院と改めたもの。関東天台総本山として隆盛を極め、江戸城から移築された客殿・書院・庫裏(いずれも重要文化財)には「徳川家光誕生の間」「春日局化粧の間」などが残されているそうです。
そんな具合に見どころの多い喜多院でしたが、素手ではかじかんでしまうほどの寒さのためにギブアップ。甘酒をいただいて早々に退散することになりました。
小江戸川越、予想を越えて楽しいところでした。見どころや老舗は他にもたくさんありそうなので、いずれ再訪するつもりです。