塔嶽

2023/11/23

丹沢に初めて接したのはこの山からだったという人が多いであろう塔ノ岳(1491m)。神奈川県西部の秦野盆地の中央を流れる水無川の水源をなす表丹沢の名峰で、山頂からの展望の良さに定評がある人気の山です。

秦野市民である私の知り合いが山登りの途中で出会った人と会話しているときに、この山を「とうのだけ」と呼んだらその人からずっと秦野にお住まいではないのですか?と聞かれたそうです。なんとなれば、秦野ネイティブの人たちは塔ノ岳のことを「とうがたけ」と呼んでいるから。秦野市在住15年の私の知り合いはFacebook上でこのエピソードを秦野市に住んでいるとはいえよそ者と見破られたようですと楽しげに紹介していました。

確かに私も山登りを始めた頃(今から40年ほど前のことです)には「塔ヶ岳」という山名を見聞きした記憶がありますが、この呼び名が今もなお現役で使われていることに驚いた私は、手元の資料を広げてこの点を掘り下げてみることにしました。

検討のスタートラインは、陸地測量部(国土地理院の前身)による地形図上の表記です。

以前、尊仏岩についてあれこれと調べたときに入手した古い地形図の写しを見ると、明治25年に出版された二万図『塔嶽』(上左)では「塔嶽」ですが、昭和8年発行二万五千図『大山』(上右)では「塔ヶ嶽」。五万図では明治31年発行『松田惣領』に始まり大正14年と昭和3・8・22年発行の『秦野』までいずれも「塔ヶ嶽」でした。現在の国土地理院発行の地形図では「塔ノ岳」ですから戦後のどこかで表記が変わったことになりますが、それがいつのことかは特定できていません。

次に江戸時代に遡って文献上にどのように記述されているかを見てみると、この手の話で必ず引き合いに出される『相模国風土記稿』(1841年)では「塔ノ嶽」になっていますし、丹沢の中世にまつわる史料を集めたサイト『中世の丹沢山地 史料集』に収録されている19世紀の修験道の記録である『黒尊佛山方之事』(1805年)と『峯中記略扣 常蓮坊』(1823年)を見ると、前者は「トウノ峯」で後者は「塔ノ峰」とあり、「嶽」や「岳」ではないものの「塔ノ」が用いられていたことが窺えます。

もう一つ。近代登山の方法論をもって最初に塔ノ岳に登った武田久吉氏ら一行の登山記録は日本山岳会の会報『山岳』第1年第1號(1906年4月)に「塔ヶ嶽」と題した紀行文として掲載されていますが、その著者でこの山行にも参加していた高野鷹蔵氏は次のように記しています。

其れで此山の名であるが、日本山嶽志には塔ノ嶽別稱尊佛山、孫佛山としてあるが陸地測量部の二萬分一地形圖には塔ヶ嶽とある、何れが正しいのであるか判らぬが玄倉でも塔ヶ嶽と云つて居る様であるが念の為特に照會したらば塔ノ嶽と報じて來た、後で大日本府縣志の山嶽編の四巻を見たらば『塔ノ嶽(略)』としてある、或は何れも誤りでなく異名なのであらう

ここに出てくる『日本山嶽志』と『大日本府縣志』は見ていないのですが、高野鷹蔵氏の言を信じるなら、上述の江戸時代の文献も含めてその時点までのほぼすべての文献において「塔ノ○」が採用されており、「塔ヶ○」としているのは陸地測量部が作成した地形図だけということになります。なお、高野鷹蔵氏の紀行文やその後の戦前の各種登山記録、さらには昭和15年のガイドブックである『日本山岳案内』が「塔ヶ○」としているのは、陸地測量部の地形図に準拠したものと思われます。

一方、戦後に目を向けると昭和34年の『丹沢の山と谷』には「塔の岳」(ひらがな)とあり、昭和46年の『アルパインガイド 丹沢・道志山塊・三ツ峠』も「塔ノ岳」です。ちなみに、これらより後の昭和58年に出版された『丹澤記』は「塔ヶ岳」としていますが、本書は著者である吉田喜久治氏の個性をそのまま出した本なので前二者と同列に扱うことはできません。

目下のところ、手の届く範囲内で調べた結果は以上の通りですが、では秦野ネイティブの人たちはなぜ今でも「塔ヶ岳」と呼び続けているのか。これについては明快な答を持ち合わせないのですが、仮説としては二つほど挙げることができそうです。

仮説 その一
本来この山の名前は「塔ノ岳」が正しいが、明治時代に陸地測量部が地形図を作成するときに誤って「塔ヶ岳」としてしまい、その後の登山者やガイドブック作成者、さらには地域の行政当局者も地形図を一次資料として参照したために「塔ヶ岳」が定着してしまった。
戦後に何らかの理由で地形図上の表記が「塔ノ岳」に訂正された後、遠方から来る登山者や出版社は最新の地形図を参照するので「塔ノ岳」の名前に置き換わっていったが、地元の人々は日常接している山の名前を呼ぶためにわざわざ地図を確認したりはしないので、ローカルのネーミングとして「塔ヶ岳」が今に伝わった。
仮説 その二
もともとこの山には「塔ノ岳」「塔ヶ岳」という複数の呼び名があり、陸地測量部の担当者は後者の呼称を使う地域の人々の言を採用して地形図に「塔ヶ岳」と表記した。
戦後に何らかの理由で地形図上の表記が「塔ノ岳」に修正された後も、古くから「塔ヶ岳」と呼び習わしていた地域の人々は先祖代々のこの呼び方を維持している。

江戸時代の史料がいずれも「塔ノ○」となっている上に、地形図の作成時のミスによって誤った地名が伝わり定着した事例は枚挙にいとまがない(丹沢だけでも「六郎小屋山→太郎小屋山」「辺宝山→辺室山」「久里峠→尺里峠」など)ので、まずは上記「仮説 その一」が大いにありそうな話です。ちなみに、天狗さんと呼ばれて親しまれた栄光学園のハンス・シュトルテ氏も尊仏山荘で「とうがたけ」と言って管理人の山岸猛男氏に「とうのだけ」だと怒られたという話が伝わっており、このことをシュトルテ氏は陸地測量部による誤記の定着という文脈で語っています。

とは言え「仮説 その二」を明確に否定する材料があるわけでもなく、地域の人々が慣れ親しんでいる名前を尊重するなら後者の仮説に立つ方が穏当ではあるので、ここでは両論併記にしておいて今後さらなる情報の蓄積を待ちたいと思います。もっとも、無理に結論を出さなくても塔ノ岳/塔ヶ岳の山としての価値は何ら揺らがないので、結局のところ、各人が自分なりの呼び方と登り方とでこの山を愛でればよいのかもしれません。

【追記】この記事を書いた後に、ある「元地元民」の方は次のように教えて下さって、私を爆笑させました。

山登りを始めた頃は「塔ヶ岳」だったので、今でもそう呼びたいのですが、国土地理院の表記が「塔ノ岳」に変わってしまったので仕方なくそれに従ってます。

それで、若い人たちが「塔ノ岳」と言っているのを聞くと、『君らの生まれる前は塔ヶ岳だったのだよ』とか『おっ、新参者か!』なんて、心の中で密かに呟いているのであります。

いやらしいですよね、ジジイは!