美学
2025/02/10
恵比寿ガーデンプレイスのYEBISU GARDEN CINEMAで、映画『ヒプノシス レコードジャケットの美学』(Anton Corbin監督)を見ました。この映画館に足を運んだのはこれが初めてでしたが、中に入ると壁面を埋める古き良き時代のスターたちのモノクローム写真が実にいい雰囲気を醸し出しています。階段のところにいるのはイングリッド・バーグマン、本当に美しい。トイレにはゴッドファーザーとグレート・ギャツビーもいましたが、さすがにそこで写真を撮ることは控えました。
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それはさておき、本題のHipgnosisとは英国人Storm Thorgerson(1944-2013)とAubrey Powell(1946-)の二人によって設立されたデザインチーム。1968年に旧知の仲だったRoger Watersに依頼されてPink Floydの『A Saucerful of Secrets』のカバーアートを制作したことを契機として以後Pink Floydの数々の作品のアルバムを飾るジャケットを作り、さらにKeith Emersonが在籍していたThe Niceとの仕事(特に「Elegy」)から知名度を上げて、1970年代には数多くのビッグネームアーチストたちのレコード制作に美術面で貢献しています。
この映画は、そのHipgnosisの軌跡をほぼ時系列通りに追いかけるもので、全編モノクロームの画面の中に、アートワークはカラーで映し出されるのが魔法のような効果をあげています。ストーリーはユニットの生い立ちから始まり、彼らの歴史を特徴づけるいくつもの作品の制作の舞台裏を振り返っていくのですが、これがとても面白い。Pink Floydの『Dark Side of the Moon』のプリズムのデザインは特に有名ですが、Hipgnosisは複数のアイデアを持参していたのにバンド側は現在のデザインを見て即決してしまいStorm Thorgersonが憤慨したとか、変わり果てた姿のSyd Barrettが『Wish You Were Here』のレコーディング現場を訪れる直前にHipgnosisのスタジオにバンドを探しに来ていたとか、『Animals』の空飛ぶ豚の逃走事件(これは有名)の顛末とか、Led Zeppelinとの最初の仕事になった『Houses of the Holy』制作に向けたプレゼンではHipgnosisのメンバーはバンドのマネージャーの悪名高きPeter Grantをかなり恐れていたとか、『Presence』に登場する黒いモノリスがねじれているのはJimmy Pageのアイデアによるものだったとか、Wingsの『Venus and Mars』の打合せでビリヤードボールを使いたいというPaul McCartneyのアイデアにStorm Thorgersonが面と向かって否定的な反応を示したためにこの仕事はAubrey Powellが一人で対応することになったとか……要するに既知・未知含めてこれでもかというくらいのエピソードが、豊富な資料映像と最近のインタビューとで語られていきます。
中心となる語り手はAubrey Powellですが、制作サイドではHipgnosisの元メンバーや周辺の知人たち、発注サイドではPink FloydとLed Zeppelinの存命のメンバーやPaul McCartney、Peter Gabrielらがインタビューに応じています。そこから浮かび上がるのは、特にStorm Thorgersonの強烈な個性と、ロックビジネスが巨大な金を生むようになった熱っぽい時代の雰囲気。しかし、Hipgnosisの顧客であった商業的に成功したロックバンドたちがパンクムーブメントの中で時代遅れの恐竜になぞられられるようになり、やがてMTVとCDが音楽を提供する媒体となっていったことでHipgnosisのビジネスは壁に突き当たります。最後に喧嘩別れをしたStorm ThorgersonとAubrey Powellはその後12年間にわたり口をきくことすらなかったそうですが、映画のエンディング間際ではそのことを深く悔いるAubrey Powellの表情が映し出されました。
この映画にはHipgnosisの作品を鑑賞者として振り返る立場でNoel Gallagherも出演していますが、彼が(自分の言葉ではないが、と断った上で)語っていたレコードは貧乏人のアートコレクション。金持ちは壁にアートを掛け、労働者階級は壁にレコードを立てかける
という言葉は階級社会に育ったわけではない自分にとっても印象的で、かつては「ジャケ買い」という言葉があったくらいにそのレコードのカバーアートは購買動機を左右する力がありましたし、しかもジャケットが観音開きに開くタイプのものであればその内側には何が描かれているのかとわくわくしたものです(例えば〔これら〕)。しかし、今やNoel Gallagherの娘さんにはカバーアートという言葉すら通じなくなっているというエピソードもまた象徴的。最後にインタビュアーから「あなたはどうしてHipgnosisを使わなかったのか」と問われたNoel Gallagherが、そこで初めて笑顔を見せて「そんなお金はなかったよ」と語るのも、Hipgnosis全盛期の熱に浮かされたような時代感を端的に示しているようでした。
なお、映画の中で紹介されたそれぞれのアルバムの場面にはそのアルバムに収録された曲が流されましたが、映画全体の冒頭の曲はPink Floydの「Shine On You Crazy Diamond」、そしてエンドロールの曲は10c.c.の「Art for Art's Sake」です。「Crazy Diamond」とは(Roger Watersは否定しているものの)Syd Barrettのことだと言われていますが、もしかするとここではStorm Thorgersonを指していたのかもしれません。また「Art for Art's Sake」もアート至上主義者だったStorm Thorgersonにふさわしい曲名です。
映画の中にはたくさんのミュージシャンとアルバムが登場しましたが、それでもHipgnosisの膨大な仕事のごく一部しか紹介されていません。その代わりプログラムの後ろの方には彼らの仕事の一覧が載っていましたが、それよりもYouTubeチャンネル『みのミュージック』のHipgnosis特集が手っ取り早くその作品群を眺められるので、ここに引用しておきます。
さて、ここで映画を離れて自分の洋盤鑑賞歴を振り返ってみると、Hipgnosisとのリアルタイムでの出会いはおそらくYesの『Going for the One』(1977年)だっただろうと思います。
Yesといえばこの映画にも登場したRoger Deanの幻想的な作風と密接不可分だと思っていたので、正直に言ってこの『Going for the One』と『Tormato』でのHipgnosisの起用にはがっかりしましたし、Jon Andersonが抜けた後に作られた『Drama』でのRoger Deanの復帰には喝采を上げたものです。それにしてもYesは『Going for the One』でどうしてRoger Deanを起用しなかったのか、よほどイメージチェンジをしたかったのかと不思議だったのですが、後に知ったところによるとJon AndersonのHipgnosisに対する最初の質問はCan you do a Roger Dean cover?
(ロジャー・ディーンのようにデザインできるか?)だったそうです[1]。それならHipgnosisに頼むことはないのに……。
『Going for the One』と同時期に目にしたのはLed Zeppelinの『Presence』。高校の1年後輩から勧められて彼から借りたものですが、これは今でも愛聴盤です。「Achilles Last Stand」を初めて聴いたときの衝撃は忘れられないな。続く『In Through the Out Door』はジャケットに映っているバーにいる6人それぞれの視点から撮影された6種類のカバーアートが用意されていて、茶色い外袋を開かないとどのデザインになるかわからないという工夫が面白いものでした。
Pink Floydを聴くようになったのは比較的遅かったので、『The Dark Side of the Moon』『Wish You Were Here』『Animals』のいずれもリリース後しばらくしてから手に入れました。これら3作以外のPink Floydの作品は率直に言ってピンときていないのですが、まぁ少なくとも『Atom Heart Mother』から『The Wall』までは必修科目のようなものでしょう。
そして映画の中ではちらっと映るだけでしたが、Genesisの『The Lamb Lies Down on Broadway』(1974年)こそデザインも楽曲も傑作だと言っていいと思います。何よりPeter Gabrielが描き出す主人公Raelの内面の旅を見事に視覚化したアートワークが素晴らしく、リスナーのイマジネーションを最大限に引き出してくれますし、2枚組94分間に盛り込まれた音楽的アイデアの豊穣さは類を見ないほど。前年にリリースされたYesの『Tales from Topographic Oceans』が美しいメロディーを散りばめてはいても80分間という長さを持て余して冗長なものとなっているのとは対照的で、そのめくるめくほどの場面転換がかえってリスナーを困惑させた面もなくはないものの、今となってはプログレッシブロックを代表する作品だと自信をもって断言できます。Hipgnosisと仕事を共にしたバンドとしては珍しく、このアルバムの制作時のGenesisのメンバーは全員存命なのですから、彼らにこのアルバム制作時の裏話やカバーアートの出来上がりに対する評価などを聞かせてもらいたかったのですが、そこだけはこの映画の残念なところでした。


脚注
- ^「Aubrey Powell's Hipgnosis story」『Louder』(2025/02/10閲覧)