開日
国立能楽堂オープンデイ
2025/10/22
ふと思い立って数えてみたところ、これまで能はざっと260番(重複含む)ほど観ているのですが、実は恥ずかしながら能舞台に立ったりその裏側に足を踏み入れたことがありません。2022年に佐渡島に渡ったときに能楽堂そのものに着目して島内巡りをしているものの、これも能楽堂を外から眺めて回るにとどまっていました。
そんな自分にうってつけの企画として目をつけたのが、国立能楽堂が実施している「オープンデイ」です。これは能楽師の方が国立能楽堂の中を案内しながら諸々解説してくださるというもので、予約不要・料金不要・所要1時間ほどという実にコンビニエントな催し。ありがたいことです。
そんなわけで「オープンデイ」の開催日と自分の都合とが合致するこの日、山種美術館での日本画鑑賞の後に喫茶店で時間調整してから、雨の中を国立能楽堂に向かいました。


この日3回開催される「オープンデイ」の2回目にあたる16時半に国立能楽堂の正面玄関に着くと、すぐにロビーに通されて案内役の能楽師の方々との対面となったのですが、平日の日中だしこの天気だから参加者は少ないだろうと思っていたらなんとこの回だけで50名以上の参加があり、これを三つのグループに分けて案内されることになりました。私が属したグループを引率してくださったのは和泉流(野村万蔵家)狂言師の河野佑紀師でしたが、これでも参加者は少ない方で、あるときは1グループだけで50人も案内したことがあるのだそうです。


見学コースは3グループの行き先がかぶらないようにローテーションが組まれているらしく、すぐに見所に向かうチームもあれば楽屋を目指すチームもあったようですが、河野師チームはまず資料展示室に赴いて、現在開催されている「狩野派絵師の能楽への眼差し」と題した企画展を自由に5分間ほど見るところからスタートしました。

続いて見所に入り、まずは客席側から能舞台の作りについての説明を聞きました。最初にロビーでグループ分けがされた後に河野師がアンケートをとったところ、国立能楽堂に来たのは初めてという人が少なくなかった(さらに言えばどうやら私が最もたくさんここに足を運んでいた)ので、見所からのこの眺めを珍しく見る人もたくさんいたことでしょう。


続いていよいよ、これまで見る機会のなかった楽屋を拝見します。普段我々観客が通ることのない通路を通り、靴を脱いで廊下を進むとそこには畳敷きの部屋が連なっていて、シテ方・ワキ方・狂言師・囃子方がそれぞれの部屋を使う作りになっているようです。


ついで装束の間に移動して、着物(これは縫箔かな)の着方と畳み方を拝見しました。徳島県出身の河野師は狂言師の家に生まれたわけではなく、芝居の学校(劇団青年座養成所)で狂言に触れてこの道に進んだということで、こうした一つ一つを覚えていくのがまずもって大変だったという話をされていました。


そしていよいよ自分的なメインイベント、鏡の間です。ここで「おまーく」の声と共に揚幕を上げるやり方や鏡に向かって面を掛ける様子が示されたのち、実際に河野師が揚幕から舞台へ進み出る場面の実演がなされました。
なるほど、これは初めて見る構図ですが、ここから橋掛リや見所を見通すとこれから何かを演じるわけでもないのに身が引き締まる思いがします。


すり足についての簡単な説明を受けてから、すりすりと橋掛リを進んで舞台へ移動。本来鏡の間から舞台までは白足袋を履いていなければなりませんが、楽屋に入った時点で国立能楽堂から白ソックスを貸与されています。国立能楽堂は橋掛リの長さで有名ですが、こうして自分の足で歩いてみるとこの距離をすり足で進むのはなかなか大変だということが実感できました。そして舞台上に立てば正面席・中正面席・脇正面席と客席が広がっていますが、河野師の言によればそれら広角から集中してくる観客の視線だけでなく、後ろに座っている先輩(後見)の目も気になってこれまたつらいのだとか。


そんなユーモラスな説明を受けながらも私が目を向けていたのは「道成寺」のみで使う環や滑車です。これらの存在はもちろん見所からも見てはいましたが、これだけ間近に眺められて一種感無量。それにしても天井が高い!この高さにある鐘の吊り紐をピンポイントで滑車に通すのは、確かに難しそうです。

さて、せっかく狂言師が引率して下さっているので、笑い方・怒り方(男女)のお手本を示していただいて参加者も後に続きました。これによって、客席に向かって声を通すことの面白さと難しさを実感できたことも貴重でしたし、足拍子を踏むと舞台がちゃんと鳴ってくれることにも感銘を受けました。


ところで舞台をよく見ると、やはり床のあちこちに傷がついています。これも数多の能楽師が名演・好演を重ねてきたことによる勲章なのだろうなと思いつつ切戸口をくぐりましたが、うっかりすると頭をぶつけそうになるその低さも実際にくぐってみないとわからない事柄です。


舞台から楽屋へ戻る途中、ふと横を見ると作リ物が置かれた暗い廊下がありました。この摩訶不思議なカーブは橋掛リの形に沿ったものに違いなく、実に興味深いものです。そして楽屋に戻り、そこに用意されていた狂言面(武悪・乙・小猿)や狂言装束の説明がありましたが、河野師が武悪面を掛けて「取って噛もう!」と声を出すと参加していたちびっ子から即座に「『清水』だ」という声が上がったのにはびっくり。もしかして狂言を習っているのかな?
さらに楽屋の中で座る位置について「人間国宝級の先生はここ、自分たち(若手)はこのへん」といった上下関係の存在と、能楽師同士がすれ違うときに瞬時に正座して「こんにちは」とやる挨拶の仕方を学んでから、質疑応答が行われました。私からの質問は「開演時刻の何時間前に楽屋入りするのか」というもので、これに対する河野師の答は「1時間前」と意外に短いものでした。さらにもう一人から、女性の能楽師もこの楽屋で着替えるのかという質問が出ましたが、これはナイスクエスチョン。狂言師は目下のところほぼ男性社会なのでそうした事態に遭遇していないのですが、シテ方と囃子方ではすでに女性プロが活躍しているし、今後その人口はますます増えるはずなので、そうなるといずれ能楽堂の作り自体にも影響してくるのかもしれません。
以上をもってお開きとなり、正座した上で「ありがとうございました」とお辞儀する能楽師流の挨拶を全員で行った後、楽屋に置いてあった荷物を回収してから河野師に見送られつつ解散となりました。

今回案内していただいた動線(ロビーを出発して楽屋に戻るまで)を平面図上に描くと、おそらくこんな感じだっただろうと思います。

短時間でしたが実に行き届いた、楽しくためになるプログラムでした。この「オープンデイ」に参加したことが直接的に自分の能の見方を変えるものではないにしても、何らかのプラスの影響があることは間違いありません。参加者がずいぶん多かったことにはちょっとした驚きを覚えましたが、その中からこのプログラムをきっかけとして熱心な能楽ファンがたくさん生まれることも期待したいものです。そして最後に、この日引率してくださった河野佑紀師とサポートの国立能楽堂スタッフの皆さんのホスピタリティがすばらしいものであったことを特筆しておきます。ありがとうございました。