顕雲

Memo 1252 - 松濤美術館サロン展「白井晟一研究所の図面」

2026/03/14

松濤美術館(渋谷)でサロン展「顕雲—白井晟一研究所の図面」。松濤美術館は私の自宅から徒歩5分という立地にあって、面白そうな展示があれば気軽に足を運べる美術館なのですが、そこでの展示ばかりでなく美術館それ自体が、その優美でユニークな設計によって評価されています。今回の「顕雲—白井晟一研究所の図面」は、この建物の設計者である白井晟一氏が主宰した白井晟一研究所が保管してきた図面1,951枚を松濤美術館が今年度に受贈したことを受けて、そのうち約60点を公開するものです。

白井氏のプロフィールや本展の開催趣旨を松濤美術館のサイトから引用すると、次の通りです。

白井晟一(1905-1983)は、1950 年代に設計した一連の公共建築や、戦後の建築・芸術界で巻き起こった「伝統論争」への参画で注目を集めた建築家です。1968 年度の日本建築学会賞を受賞した《親和銀行本店》や住居《呉羽の舎》、未完のプロジェクト《原爆堂計画》をはじめ、その作品は現在でも高い評価を受けています。

彼の主宰した白井晟一研究所は、精緻かつ優美な図面を作成したことでも類まれな存在でした。図面は、建築の形態とともに白井自身の設計思想を内包する媒介物で、それゆえに作成された図面には独特な精神性が漂います。薄いトレーシングペーパーに描かれた線描は実体化する前の建築の気配をたたえ、建築と設計者、そして施工者をつなぐはかない幻のように佇みます。その存在感は、建築作品のタイトルや自筆の書のモティーフとして白井が好んだ一字、「雲」になぞらえることも可能でしょう。

建築の展覧会では多くの場合、図面は写真や模型と同様に建築物の代理表象として扱われます。しかし本展では、白井晟一の主宰する設計事務所が作成した原図面そのものに焦点を当て、その魅力をあますことなくご紹介すること——白井がよく揮毫した言葉に倣うならば、雲を顕すこと——を目指すものです。

これは実に興味深い。そしてなんと、同時開催中の「松濤美術館公募展」と共に入場料は無料です。

学芸員によるギャラリートークが開催されるこの日、少し早めに美術館に着いて中をざっと一回りすることにしました。まず受付でギャラリートークの集合場所を確認してから、趣きのある階段をとんとんと登って2階へ。

すると、2階のこじんまりしたエレベーターホールには松濤美術館の建物の模型が3つ置かれていました。一つは断面が見えるもの、後の二つは完全な姿で外観を見られるようになっているものですが、それら二つの相違点については後述します。また、この展覧会では写真撮影が許可されていますが、ただし1点撮りはご遠慮くださいとのことでした。

会場になるのは2階のサロン・ミューゼで、落ち着いた雰囲気の中で図面の1点1点と向き合うことができるようになっています。しかしギャラリートークの開始時刻が近づくと人が増えると思われるので、解説を読むことは後回しにしてまずは一通り写真を撮って回りました(よって以下の写真の多くはギャラリートーク前に撮影したものです)。

14時からのギャラリートークには、ざっと20人ほどが参加しました。解説してくださった学芸員さんによるイントロダクションを紹介すると、ざっと次の通りです。

  • 当美術館のサロン展は、渋谷区に関係がある作品や当館のコレクションを紹介するのが通常だが、今回は特別。と言うのも(上述の通りの経緯で)当館設計者・白井晟一の現存する図面のおそらくほぼすべてを当館が寄贈いただいたので、そのお披露目の展覧会として企画したものである。
  • なるべく広く紹介したいと思ったので、各建築につき図面を1〜2枚しか展示していない。そうなると図面からどういう形の建物であるかを読み取ることは不可能だが、そこは潔く諦めた。日本トップクラスと言われる白井晟一の図面の精緻さを見てほしい。
  • 展示室の中の配列は、サロン・ミューゼに入ってすぐ左の壁から時計回りに、年代順に並べてある。白井晟一は1930年代にドイツに留学し、帰国してから建築家としての活動を開始したが、展示の中で最も古いものは戦後すぐのものである。

こんな具合に説明を受けながら、展示室の中を時計回りに回りつつ各図面を見て回りました。

一番古い図面は1946年制作の《三里塚農場計画》で、もともと御料牧場であったところを戦後の農地解放に伴い引揚者らに払い下げて農場として活用しようとする計画に基づく図面(実現せず)です。ただしそこに描かれているのは規模の大きい厩舎のような建物で、計画のディテールは謎。一方、形に注目すると当館にも見られる曲線やカーブの意匠が見て取れ、白井氏が初期からこうしたものを好んでいたことがよくわかります。

他にも、取壊し予算がないために廃墟化してしまっている《松井田町役場》(1955年制作)であるとか、実現しなかった《仙北木材会館》(1954年制作)であるとかの図面が説明されましたが、あえて平面図や立面図ではなく矩計詳細図や開口部詳細図を出すなどしてバラエティを出す工夫がなされています。

さらに興味深かったのは浅草の《善照寺本堂》(1956年制作)の図面についての解説で、そこでは設計のプロセスを辿ることができ、断面図を見ると途中案には地下室があったこと(白井氏は祈りのための施設には必ず地下空間を設けるという方針を持っていたそう)、また平面図からは参拝者が本堂入口から内陣に向かって直線的に入れるようにするかこれを壁で遮ってその左右から回り込んで内陣を見られるようにするかという動線の試行錯誤の形跡が見られます。この点に関しては後ほどこの松濤美術館の設計図でも読み取れるのですが、学芸員さん曰く、白井氏は「空間から別の空間へ移動するときの境目の設計に気合いを入れる人」だったそうです。

その右には秋田県の《秋ノ宮村役場》(1950年制作)の平面図と立面図があり、その特徴として、豪雪地帯の木造建築なのに屋根の角度が緩やか(16°)で雪を落とさない設計になっていること、その重さを支える補強構造が露出する作りになっている点が白井氏の設計としては異例であること、そこから当時白井氏を手伝っていた建築家・広瀬鎌二氏の関与が窺われること、という話がなされました。

白井氏というと綺麗な図面(とりわけパースPerspective Drawing)で有名で、白井氏が神格化されているためそうした図面は氏自身が描いたと思われる傾向があるが、実はそんなことはなくて、この《雄勝町役場》(1954年制作)のパースは所員の大村健策氏が描いているそう。学芸員さん曰く、白井氏は「手の人ではなく目の人」で、厳しい審美眼をもって何度もダメ出しをしながら図面をより美しいものに仕上げていったそうです。

こちらには個人住宅の図面が並びますが、白井氏の義兄・近藤浩一路氏の邸宅《土筆居》にまつわる話が面白く、学芸員さんの話によれば、そこは白井氏のほか川添登、黒川紀章、菊竹清訓といった人たちが集まり議論を交わすサロンのような役割も果たしていたということでした。なお、上の写真の左端に写っている書はこの展覧会のタイトルになっている《顕雲》(白井晟一研究所所蔵)で、書いたのはもちろん白井氏です。

サロン・ミューゼの奥の小部屋=特別陳列室でまず目を引くのは、学芸員さんが「木造住宅の名手・白井晟一の最高傑作」と呼んだ《呉羽の舎》の矩計詳細図(1963年制作・上の写真右側)です。あいにく門外漢の自分にはどこがどうすごいのかわかりませんでしたが、学芸員さんによれば建築家の卵にとっての教科書のような建物だそうで、その口調は「私もこれで勉強しました」と言っているように聞こえました。

さらにずらっと並ぶのが《親和銀行》の本支店の図面です。上の写真の左は東京支店、右の2枚は大波止支点(現存)の図面ですが、右上は「親和銀行」のレタリングで彫り方まで指定してあり、右下は家具の設計図です。図面の下の解説によれば、白井氏は家具に関して自らデザインするだけでなく、古今東西の優品を渉猟する目利きでもあったということでした。

ちなみにこちらは1階ロビーに展示してあった親和銀行東京支店(この建物は現存せず)の模型です。サロン・ミューゼに展示されていた図面は、この内部を描いたものということになります。

こちらは今年「登録有形文化財」に指定されたという親和銀行本店の図面で、学芸員さんは実際に建物を見に行き、その「なまめかしい曲線」に衝撃を受けたそうです。なお、この右下の図面の中に「AMOR OMNIA VINCIT」の刻字指定がなされていますが、これはウェルギリウスの詩に見られる「OMNIA VINCIT AMOR(愛の神はすべてを征服する)」の語順が変わったものです。

この部屋で最後の注目は上の写真の右の図面=親和銀行本店の第一期改築計画(実現せず)で、図面の左半分に描かれているのは大正時代に建てられた様式建築の部分ですが、白井氏のプランはこの既存の建物を生き物が飲み込むように拡張する形になっており、実現しなかった《原爆堂》のファサードのアイデアが図面右下の部分に流用されているそうです。

なお、この図面の説明の際に学芸員さんが大正建築の部分を指して「付柱があるのがわかります」と言うと複数の参加者から頷く声が聞こえたので、予想されたことではありますが、このギャラリートークには「その筋の人」が少なからず参加していたようです。かたや私にはそうした下地がないので、付柱と言われてもその場ではぴんときません。これが控え壁(バットレス)だったらわかるのですけど……。

特別陳列室は以上で終了。その出入り口の脇には《戒 莫作諸悪衆善奉行》が掛けられていました。SFイラストレーターの真鍋博に贈られたこの書が書かれたのは1960年代らしいのですが、白井氏はことに晩年は書に打ち込んでいたことが解説に書かれていました。

最後はサロンの広い部屋に戻ってこちらの壁。左には白井氏の私邸、右には茨城県の大学の施設や静岡県の美術館の図面が掲示されていますが、時間の都合でそれらは省略されて、中央に掲げられている《松濤美術館》の図面の解説が行われました。

平面の基本的なアイデアは現在の松濤美術館の姿と類似していますが、吹抜けのところが鱗状の窓になっていたり螺旋階段が(現在のU字ではなく)楕円になっている上に、来館者を展示室へ誘う動線が大きく異なり、入口を通った来館者はそのまま直進して吹き抜けに掛けられている橋を渡ってその先で階段を使って展示室へ向かう作りになっています。どうやら、学芸員さんが《善照寺本堂》の解説で述べていた「空間から別の空間へ移動するときの境目」の設計に入れる気合いがここでも発揮されたようですが、残念ながらこの案通りには実現しなかった理由は不明です。

こちらは先に紹介した松濤美術館の模型ですが、断面を見せていない二つの模型の違いは吹抜けの部分にあり、片方は現在の姿、もう片方は上記の図面にある鱗状の窓になっているほか、屋上部の形状にも相違がありました。

そしてこちらは吹抜けに掛かる橋と、その底にある噴水です。先ほど見た模型でもわかるように、松濤美術館は高級住宅街にあることを考慮して外向けの窓を少なくしており、その代わりにこの吹抜けから採光する形状になっている点が特徴です。

ギャラリートークを終えて螺旋階段を下り、松濤美術館を後にしました。ただし、実は館外にも一つチェックポイントがあります。

サロン・ミューゼに展示されていた図面の一つ《煥乎堂》(前橋の書店)の右側袖壁手洗場詳細図(1954年制作)は、松濤美術館にも同じものがあるからということでセレクトされたそうですが、この図面上では蛇口は市販品が描かれ「形状・寸法は別に指示する」とあり、実際には白井氏が自ら粘土をこねて石膏型を起こしてブロンズで鋳造した蛇口が取り付けられたそうです。その実物を見ると「なぜこんなところに?」という疑問が湧くほどひっそりと存在しており、蛇口には「PVRO DE FONTE」の文字。この句は文脈によって「純粋な(清らかな)泉」とも「知の泉」とも訳せるようですが、書店にとっても美術館にとっても、どちらの意味でもフィットしそうです。

建築にまつわる展覧会となると普通は模型やパースに期待したくなるものですが、この展覧会に展示された図面の数々は、トレーシングペーパーに鉛筆やインクで描かれた直線や曲線とそこに書き加えられた端正な文字の組合せがどれも美しく、たとえ建物の形状が想像できなくてもそれ自体で目を楽しませてくれるものでした。

また、解説してくれた学芸員さんの潔い割切りによってさまざまな建物の図面を見ることができたことも価値のあることでしたが、やはり松濤美術館の図面が、実物とただちに見比べられて面白い。前にこの美術館で見た展覧会「須田悦弘」はこの美術館の建物を器にした宝探しでしたが、今回はその器そのものに隠された設計上の試行錯誤の片鱗を見られたという点で興味深いものでした。

そこからさらに思考を深めるなら、設計に際しての要件(特に制約要因)を建築家がいかにしてクリアしているかという点(たとえば上述の「採光」など)にも興味が湧いてくるのですが、30分という時間の中でこれだけ多彩な図面を解説するギャラリートークにその説明を求めるのは無理がありそう。それに今回の展示はあくまで図面そのものの美を愛でる点にポイントがあるので、展示趣旨からも外れます。よって、松濤美術館オンリーにフォーカスした解説を得られる機会の到来を期待することにしようと思います。

上記の通り、この展覧会では1点撮りはご遠慮くださいという指定があったので、本稿の中では展示された図面を鮮明に示すことはできていません。それでも、雰囲気だけでも伝われば幸いですし、これによりこの展示に興味を持った人には「ぜひ松濤美術館を訪れるように」とお勧めします。「その筋の人」でなくても、十分に楽しめるはずです。

2026/03/21

この日、松濤美術館の館内建築ツアーが行われました。白井晟一氏の晩年の作品であるこの美術館の構造上の特徴を学芸員さんが解説してくれるということなので、私ももちろん参加しました。

ところが、このツアーのあまりの人気にびっくり仰天。当初は1階のエレベーターホールが集合場所に指定されていたのですが、人数が増えすぎてそこでは収まらなくなり、急遽美術館の前の水飲み場がある小広場に移動することになったものの、それでもかなりの人数が車道にはみ出て列を作っている状態です。当然、この全員が一度に館内を移動するわけにはいかないので、半数ずつ2組に分かれての受講となりました。皆さん、いったいどこでこのツアーのことを聞きつけたんですか?

解説の最初は当美術館の歴史から。1981年開館のこの美術館は白井氏76歳のときの作品で、まず外観上の特徴である薄くピンクがかった石は紅雲石です。実は、設計段階では別の石を用いることになっていてその調達もすんでいたのですが、いざ揃った石を眺めてみると「イメージが違う」と白井氏が言い出して、設計変更になったのだそうです。当然そのことでコストが上がるために区の営繕担当部局は説明に奔走し、議会でも紛糾して徹夜の審議がおこなれた末に、最終的には変更案が通ったということでした。これは芸術家のエゴの話としてではなく、当美術館がそうした芸術家の創造性を理解しバックアップする態勢とこれに追随する経済的余裕があった時代に建てられた幸せな建物であったと理解してほしい、というのが学芸員さんの説明です。

ついでエントランスに入ると、頭上に黄色く縞模様の入った天井。これまで気づいていませんでしたが、これはオニキス(縞瑪瑙)を薄くスライスして強化ガラスでサンドイッチして光天井としたもので、これも先ほどの外観と同じく後期白井建築の特徴だそう。他には飯倉のノアビルでも見られるものの、あちらは天井が高いために当館のように間近に見ることはできないということです。そして、先日のギャラリートークでも解説されたように、当初の構想では、このエントランスを抜けた来館者は直進してブリッジを渡り、その先で螺旋階段を下って展示室に降りる設計になっていたことが説明されました。

続いて地下1階。この高い天井と湾曲した壁面に囲まれた空間が特徴的ですが、学芸員さんが注目を促したポイントはむしろ計画的に設けられた軸線の存在です。具体的には、先ほどのエントランスからブリッジを通り抜けて壁面のスリット窓まで一直線に結ばれていて、そのことは当館の模型を見ても一目瞭然です。

加えて、4階層を貫いて縦の軸線を作る中央の吹抜けが全面窓になっていて、地階(土の下)であってもそうであることを感じさせない明るく開放的な空間が立ち現れている、という説明がなされました。確かに、この松濤美術館を訪れるとしばしば困惑するのが、自分が何階にいるのかわからなくなることでしたが、この説明を聞くと納得です。さらに、西洋やアジアの古い建築様式を研究して自身の設計に生かしていた白井氏は、ヨーロッパの「円形教会」を参照してこの吹抜けを中心とした同心円状の空間を構成したことが窺えるが、この同心円の発想をさらに遡れば、中央に柱一本を立てたテントという「建築の原型」にまで行き着くという説明には目を見開かされました。

地下2階。ふだん入ることのないこのフロアでは、吹抜けのすぐそこに噴水が水を噴き上げている眺めがまずもって斬新です。

説明が行われたホールは展示には使わず、展覧会の関連イベント(講演会・音楽会など)や美術教室など多目的に使用されています。その目的を果たすための仕掛けとして、ブビンガ材の壁面を開けるとスクリーン、その反対の壁には映写室が設けられ、おまけにスクリーンの上に黒板を引き出して講義に使うこともできるようになっているなど、随所に白井氏のアイデアが盛り込まれていました。こうしたポイントを熱を込めて解説した学芸員さんは、白井氏は「機能」という言葉になじまない建築家だと考えられているが、ここは地味ながら機能的によく考えられているのだ、と誇らしげでした。

次は地上2階。地下2階から3フロア分の階段をぐるぐると回って移動した先のサロン・ミューゼ内は、芋の子を洗うような状態になりました。館内建築ツアーではなくサロン展「顕雲」だけを目的としていた来館者は目を白黒しただろうと思いますが、最初に記したように、これでもツアー参加者の半分にすぎません。

地下1階の展示室とは対照的に、こちらは天井が低く落ち着いた雰囲気です。壁はベネチア製ベルベットが今でもオリジナルのままですし、床はさすがに一度張り替えられましたがもとはもっと毛足の長いカーペットで、これらが吸音することで静かで声が通りやすい空間が作られていたそうです。そこに置かれたソファとテーブルも白井氏目利きの家具で、15年ほど前まではここで喫茶が営まれており、サロン入口の小さなカウンターの奥に今は使用されておらず見ることができない厨房があったことが紹介されて参加者は一様に驚いていましたが、一昨年の「須田悦弘」展を見た人なら、その厨房も展示に使われていたので中を見ているはず。もっとも、あまりにも暗くて〔こんな感じ〕でしかありませんでしたが……。

壁面や天井を区切る木材は高価なブラジリアン・ローズウッド(親和銀行本店建築と同時期に仕入れたもの)ですが、梁は梁としての機能を有しておらず(そもそも鉄筋コンクリート造なので梁は不要)、空調ダクトが入っていてその吹出し口がところどころに開いており、いわばハリボテ。学芸員さんの言によれば、このように「構造を担っているように見せかけて実は担っていない」素材の使い方は、構造がそのまま美しさにつながっているべきだと考えるモダニズム建築とは一線を画す行き方で、そこには建築を俯瞰するモダニズムの見方に対し現にその部屋に入った一人一人がどう感じるかを重んじる白井氏の設計思想が現れているということでした。梁と柱がずれている点も同様で、構造的には不要なこれらをあえて組み合わせることで、木造建築的な落ち着きと空間のリズムが生み出されています。

サロン・ミューゼの奥まったところにある特別陳列室は、ガラスケースを必要とする展示品(掛け軸や書などの紙物)のための展示室として作られたもので、もしかしたら白井氏は自分の書を念頭に置いてこの部屋を作ったのかもしれない、ということです。そしてここでも予想しないところから引き出されたのは無垢材の格子ドア。いろいろな仕掛けが隠されているものです。

最後に案内されたのは館長室ですが、さすがにこちらは立入り及び撮影不可[1]。入口から覗かせてもらったところ、深みのある色合いの木材で壁面を覆い、床は赤いカーペット、すばらしくゴージャスな執務テーブルと長円形のテーブルの周りにやはりゴージャスな椅子が並び、実に豪奢な作りでした。しかし、実は白井氏の設計によればこの部屋は「会議室」とされており、館長は一般館員と同じ事務室の一角を仕切って執務する想定になっていたそうです。このように、地位によって部屋を分けることをせず、皆が利用する部屋が一番豪華という作りや、中心を吹抜けにしてその周りに皆が集うこの建物の構造自体が、若いときにドイツに留学して影響を受けた社会主義の価値観に基づくものであり、空間で自身の思想(良心)を表現したものだろう、という説明をクロージングトークとして、約1時間にわたった館内建築ツアーが締めくくられました。

脚注

  1. ^館長室の模様を含む松濤美術館の見どころは、2021年から2022年にかけて松濤美術館で開催された「白井晟一 入門」展の紹介記事(「これが白井晟一建築の決定版。渋谷区立松濤美術館「白井晟一 入門」レポート」『Tokyo Art Beat』(2026/03/21閲覧))で見ることができます。