凍涙
1998/10/04
IMAX方式により撮影されたドキュメント映画『エベレスト』を、新宿タイムズスクエアの東京アイマックス・シアターで観ました。
6.5階建のビルに相当する大きさのスクリーン上に巨大で鮮明な画像を写し出すアイマックス方式のカメラクルーが、実際にエベレストに登頂して世界最高峰の山頂からの景色を撮影する、というのがこのドキュメント映画の目的。冒頭の登頂メンバーたちのトレーニング風景やヘリコプターでカトマンズから登山開始地点まで移動する模様などで、早くも圧倒的な迫力の映像がスクリーン上に展開し、驚かされました。撮影隊は最もポピュラーなコースであるウェスタン・クームからサウスコルを経て登頂するルートをとっており、クレバスやアイスフォールを越えながら徐々に高度を上げ、最後はサウスコルのキャンプを夜のうちに発って一気に山頂に立っています。天候は快晴、最も成層圏に近い地点からの映像は素晴らしいものでした。ただ、環境が厳しいせいかフィルムの残りが少なかったのか、山頂のシーンが意外にあっさりと終わってしまったのが少々残念ではありました。
しかし、この映画が価値があるのは、無事エベレストに登頂してそこでの撮影に成功したこともさることながら、撮影隊が入山していた1996年5月にエベレストで起こった有名な大量遭難事故にたまたま遭遇し、生還者の救出の模様などをフィルムにおさめている点にあります。この事故は、一日のうちに31人が登頂するという登頂ラッシュのさなかに天候が急変して8人もの遭難者を出したばかりでなく、その中に日本人の女性登山家・難波康子さんが含まれていたことで日本でも大々的に報道されました。ことに、難波さんは世界七大陸最高峰を全て登頂するセブンサミッターを目指しており、その最後を飾るエベレストに見事に登頂したものの、下山途中サウスコルのC4を目前にして力尽きていました。この事故の模様を1996年5月29日付ニューズウィーク日本版の引用で紹介すると、以下の通りです(文中敬称略)。
- 5月10日
- 五つの遠征隊に所属する登山家31人が、約1カ月をかけた遠征の末に、エベレストの登頂に成功した。隊員らが下山しはじめると、突然の暴風で気温が零下40℃まで下がった。マウンテン・マッドネス隊を率いたスコット・フィッシャーは遅れ気味の隊員を助けるため頂上付近に残り、ニュージーランド登山隊のリーダー、ロブ・ホールも、アメリカ人のダグ・ハンセンを助けるため彼のそばにとどまった。だがハンセンはその夜、ホールのかたわらで息を引き取る。深夜までに第4キャンプに戻れたのはわずかに数人だった。
- 5月11日朝
- 救助隊はホールに近づこうとしたが、強風で彼のいる地点まで辿り着けない。その約300m下方では、フィッシャーと台北登山隊のリーダー、高銘和が発見される。救助隊は高の方が助かる可能性ありと判断、第4キャンプへ連れ帰った。難波康子とアメリカ人のシーボーン・ウェザーズも発見されたが既に死亡とみなされ、救出はされなかった。
- 5月11日午後
- シェルパたちが救助に来られないことを無線で知らされたホールは、ニュージーランドにいる妻に電話をつないでもらい、最後の会話を交わした(夫妻は、生まれてくる子供の名前を話し合ったといわれている)。死亡したとみられていたウェザーズが第4キャンプに到着、翌日付き添われて下山。
- 5月11日夜
- 第4キャンプに戻ったニュージーランド隊のアンディ・ハリスが消息を絶つ(第4キャンプのそばを通ったものの、方角を見失い、雪に埋もれてしまったらしい)。
- 5月13日
- ウェザーズと高が標高約5,800m地点でヘリコプターに収容される。気圧が低いこれほどの高地でヘリコプターによる救助が行われたのは初めて。
- 5月14日
- 暴風雪のなか死亡した8人のために、ベースキャンプで追悼式が執り行われた。
撮影隊は、このうち動けなくなっていたロブ・ホールと交信を交わし、シーボーン・ベック・ウェザーズの救出に協力した後、事故から10日余り後の1996年5月23日に登頂に成功しています。
この記事によれば、エベレストの山頂は1年の大半がジェット気流の通り道になって風速50mの風が吹き荒れ、頂上に辿り着くだけで、天気に関する一生分の運をほぼ使い果たすとのこと。なお、エベレストの登頂成功確率は約14%。事故当時の時点で頂上に立った登山家は600人に満たず、140人以上が遭難死しています。また、難波康子さんの遺体は、翌年の5月20日にサウスコルからベースキャンプへ収容され、現地で夫の難波賢一氏の立会いのもと荼毘に付されました。