他界
2000/09/05
最近読んだ中公新書の『ケルト神話と中世騎士物語』(田中仁彦)は、副題に「『他界』への旅と冒険」とうたっているように、口承神話に見られる地底や海のかなたの彼岸の世界(「他界」)へと旅する物語群がキリスト教の受容と習合を経て中世騎士物語へと洗練されていった過程を明らかにする本です。
ここでケルトの歴史についておさらいをしておくと、ドナウ川上流域を発祥の地とする騎馬民族であるケルト人は、紀元前2000年頃から四方に膨張をはじめ、やがてローマ帝国出現以前のヨーロッパ全域を支配した民族です。そのうち今のフランスに居住したのがガリア人であり、イギリスに展開したのがブリトン人ですが、いずれも紀元前後にローマ帝国の支配下におかれ、ガリア人は急速にローマ化していきます。一方ケルトの文化を伝えたブリトン人たちも、5世紀にはゲルマン系のアングロ・サクソン族の侵攻を受け、ウェールズ、コンウォール、マン島などの僻隅に追いやられ、一部は海を渡ってブルターニュ半島に移住します。こうしてケルトの文化は、他民族の侵入を受けなかったアイルランドとこれらの地域に辛うじて残り、やがて東方キリスト教の受容によって独自の宗教的・文化的伝統を築き上げていくことになります。そして、有名なアーサー王の伝説は、6世紀初頭にブリトン人がアングロ・サクソンを打ち破り、一時的にブリテン島の支配権を回復したベードン・ヒルの戦いの記憶の中から生まれたものです。
さて、後にアーサー王伝説へと昇華していくケルトの伝説の中で、この本が重要視しているのはイムラヴァと総称されるアイルランドの「他界への旅」の物語群であり、その代表ともいえる「メルドゥーンの航海」は、以下のようなストーリーです。
アリルの子メルドゥーンは、自分の出生前に父が海賊に殺されことを知り、20人の仲間達と共に仇討ちの航海に出る。いつの間にか他界の海に迷い込んだ彼等は、さまざまな怪獣や魔物の島、リンゴの島、猫の島、白い羊と黒い羊の島、嘆きの島、鳥と巡礼の島、海底の国などを経て、女人国に辿り着く。ここで数カ月を過ごした後、さらにいくつかの不思議な島を巡るうちに、3名が旅から脱落し、ついに仲間の数が船を建造するに当たってドルイド僧から指示された人数である17名になって禁呪(ゲッシュ)の呪縛から解かれたときに、メルドゥーン達は現世である仇の海賊の島に到達する。しかし直前に出会った老隠修士の、許し、殺してはならない、との教えに従い、和解する。
この話を読んで思い出したのが、子供の頃に夢中になって読んだ『ナルニア国ものがたり』(”The Chronicles of Narnia” / C.S.ルイス)でした。全7冊の大河物語である『ナルニア国ものがたり』の中でもことに『朝びらき丸 東の海へ』(”The Voyage of the Dawn Treader”)はケルト的な色彩が濃く、イムラヴァの影響を感じます。
ケア・パラベルの城からはるかに東、最後のナルニア領である離れ島諸島を後にした朝びらき丸は、大嵐に会った後さまざまな不思議を巡ることになります。少年が竜になってしまう島、巨大な海蛇、浸したものを金に変えてしまう池の島、見えない小人の島、暗い霧の島、長い毛に覆われた3人の貴族が眠る島。そしてついに朝びらき丸は東のいやはての海に到達し、そこからネズミの騎士リーピチープをこの世の果ての世界へ送り込むことになります。
ケルトの伝承における「他界」とは、ケルト人たちの移住のさらに前にメンヒルやドルメン、ストーンサークルを作った、ブリテン諸島の先住民たちの住む世界であり、それは海の彼方や地下の世界で、さまざまな妖精や小人の住むところでもあります。一方ナルニアにはものいうけものや小人、フォーンやセントールが住み、主人公たちは魔法の力によって我々の世界とナルニアの間を往復します。したがって、「朝びらき丸 東の海へ」は我々の世界からナルニアという他界へ、さらにナルニアから東の彼方の他界へ、という重層的なイムラヴァの構造をもっているということになるでしょう。また、「朝びらき丸 東の海へ」に続く「銀のいす」(”The Silver Chair”)における北方の巨人国や地下世界への旅立ちなども、同様の構造といえそうです。さらに「ナルニア国ものがたり」シリーズの他の話に出てくるさまざまな道具立て、たとえば白い魔女が創造主アスラン(トルコ語で「ライオン」を意味します)を殺した石舞台はドルメンを連想させますし、森の奥にある街灯あと野はドルイド教の聖なる場所(ネメトン)である森の中の空き地。そして何より、他界=ケルトによって滅ぼされた先住民の住処とはすなわち死後の世界であり、「ナルニア国ものがたり」の最後には、主人公の少年少女たちは現実世界での鉄道事故で死ぬことによって、ついにナルニアでの永遠の生を獲得することが明かされることになります。