戦記

2003/07/15

『地球の歩き方 ミャンマー(’00〜’01)』の中に、シャン州の町ラーショーに関する次の解説が載っています。

シャン州北部の盆地の町ラーショー。日中戦争で日本軍が中国の沿岸地方を占領したため、日本と戦う中国国民党支援の補給路として連合軍は雲南省の昆明まで全長1153kmの道路を突貫工事で建設した。そのビルマ公路の起点となった町だ。やがて第2次世界大戦が勃発すると日本軍はラーショーを経て雲南省にまで侵攻したが、連合軍の反撃にあい多くの死傷者を出した。中国とミャンマー国境地帯の町では日本軍の守備隊が玉砕したところもあり、ラーショーも連合軍の爆撃を受けている。

ここ1カ月ほどで読んだ、古山高麗雄の小説『断作戦』『龍陵会戦』は、この雲南省での日本軍守備隊の敗退を、『フーコン戦記』はそれより少し前のミャンマー北部フーコン谷地での日本軍の死闘を、それぞれ描いたもの。主役となるのは、『断作戦』が龍兵団(第五十六師団)の騰越守備隊、『龍陵会戦』が龍陵守備隊の救出のために戦地に赴いた勇兵団(第二師団)、そして『フーコン戦記』はインパール作戦と同時期に悲惨な退却戦を展開した菊兵団(第十八師団)ですが、小説としての構成にはそれぞれ特徴があり、『断作戦』は玉砕した騰越守備隊の生き残り2名の交友の中でのそれぞれの回想を通じて騰越防衛戦が語られますし、『龍陵会戦』は実際に勇兵団の兵士として龍陵に赴いた作者の私小説としてエピソードが展開します。そこでは、何十倍もの物量差と兵力差の圧力、飛散する迫撃砲弾の金属片、高地の厳しい寒さと衣類を重く濡らす雨、そうした諸々の、尽きることのない波のような繰り返しの中でひたすら消耗し、失われていく兵士たちの生命が語られ、ときとして軍や国家に対する批判も垣間見えるのですが、一方で登場人物(や作者自身)は、「運」によって死に、または生き延びる偶然の作用に対して一種の諦念を抱いています。

そうした諦観と、地の文と主人公の一人称の語りが融合した文体とが見事に一致した作品が、これら三部作の最後をなす『フーコン戦記』です。ここでは、菊兵団の一員としてフーコン撤退戦を生き抜き、戦後40年以上を経て今はすっかり老いた主人公が、とあるきっかけで知り合った戦争未亡人の求めに応じてフーコン地区の白地図の上に自分の撤退の行程を記していく中で、兵士達の悲惨な姿が回想され、描き出されます。しかし、下級兵士に過ぎなかった主人公には、当時自分達が置かれた状況もわからないままに、敵に追い立てられ、泥にまみれ、飢えと病に苦しみながら、どこともわからない道を、日付すらも判然としない中で撤退していくしかなく、当時の情景は主人公にとってもはや記憶の霧のかなたであり、夢の中のことのようでもあります。したがって主人公には、元将校たちが書いたような手記や戦記などはとても書けず、白地図の上に通過地点をおおまかに丸で囲むことぐらいしかできません。

この主人公は、『断作戦』の主人公の1人のように、雲南の戦記を書き、遺族に戦場の模様を語ることを使命と考えているわけでもなければ、『龍陵会戦』での作者自身のように、自分の過去を思い、前線で死んだ兵士達を思い、生き残った者は何を考えなければならないのかと問い続けているわけでもなく、戦争未亡人に淡い思慕を抱きながら、回想と忘却の反芻の中に淡々と老いの日々を生きて、大きな小説的事件もないままに白地図の完成を迎えます。しかしこの白地図だけが、俺が死後に残すフーコン戦記なのだという主人公の独白が、この三部作の終わりを締めくくるにふさわしい述懐になっており、なんだか泣けてきます。