学会

2006/12/02

かつてのゴミゴミした様子しか知らない自分にはここが秋葉原だとは信じられない程すっかりきれいになった秋葉原駅から、「つくばエクスプレス」に初めて乗りました。筑波へ行くのは確か筑波科学万博=EXPO’85以来だから、実に21年ぶりです。ついでに書くと最初に筑波を訪れたのは大学1年のとき、洋弓部の試合が前泊付きであったからで、JBLの巨大スピーカーが置かれた喫茶店でホスト役の親切な筑波大の選手が「ここでは女子学生も飾り気がなくて、たまに化粧しているのがいると『キャバスケ』などと非難される」と教えてくれたくらいの田舎でした……が、硬い座席に痛くなったお尻をさすりながら駅から地上に出てみると、筑波の空は相も変わらずの広さでした。

公園の池の向こうになぜか屹立しているH2ロケットを見ながら向かったのは筑波大学春日キャンパス。「情報ネットワーク法学会」の第6回研究大会を聴講するのが目的です。情報ネットワーク社会に対応した法制度のあり方を提言するというのがこの学会の趣旨のようで、私は別に学会員というわけではないのですが、仕事柄関心の深い領域だし、今回報告されるテーマも面白そうだし、筑波ならそれほど遠くもないし、ということで参加費1万円也を払って参加した次第。当初はあえてこのサイトの記事にするつもりはなかったのですが、実際に参加してみるとどのプログラムも非常に面白かったので、自分の備忘を兼ねてここに感想を記すこととしました(以下はあくまで私の主観に基づく感想であり、私が発表者の方々の真意を汲み取り損ねている可能性もあることを断っておきます)。

全体の構成は、

  1. 開会挨拶・総会
  2. 個別研究報告
  3. 基調講演
  4. パネルディスカッション

となっていて、会員ではない私は開会挨拶と総会はパス。受付を済ませたらいったん外に出て公園を散歩し、うまい具合に見つけた喫茶店でサンドイッチとコーヒーの朝食をとりました。

頃合いを見計らって会場に戻ったら、目当ての教室を探します。個別研究報告は4会場で同時に行われ、各会場で3ないし4件の報告があって、参加者はあらかじめ各会場での発表テーマを見て興味がある会場を選んでおくわけです。私が入ったのは第3会場で、報告内容は次の通りでした。

  1. 「情報セキュリティ管理策と労働法判例」嶋崎美樹氏(新日本監査法人)
  2. 「個人情報保護法全面施行後の初等中等教育機関の個人情報保護の現状と問題」長谷川元洋氏(金城学院大学)・大谷尚氏(名古屋大学)
  3. 「行政情報への国民のアクセスの確保について-国際文書を例に」中村有利子氏(龍谷大学)

最初の「情報セキュリティ管理策と労働法判例」は、ISO27001が要求している秘密保持契約・資産利用の許容範囲・人的資源管理・資産の移動・モニタリングのそれぞれについて、これまでの判例の動向を整理したもの。といってもある程度古い判例のサーベイが中心になるので、セキュリティポリシー上にISMSの管理策が明定されていない状態下で、通常の労働契約や就業規則の定めが、一般の信義則の力も借りてどこまでポリシーの不備を補えるか、という視点になっていたように思いますし、そうなるとこれだけISMS構築が浸透してきている中で、この研究成果がいかなる意義を持ちうるか、ちょっとよくわかりません。この報告の中では、ISMSの要求事項である「懲戒手続」に関して、「本来は労働契約上対等な労使間で使用者が一方的に課す秩序罰」であり「刑法の罪刑法定主義に準じ、明確な根拠」が必要と述べていますので、この点を掘りさげても面白かったかもしれません。セキュリティポリシーが整備される中で可罰性の根拠は緻密になっても、多様な違反行為のそれぞれに対してどのような処分が科されることになるかは就業規則の(アバウトな)懲戒手続と紐づけられることにより依然として曖昧なまま、というのが世の中の実態ではないでしょうか。「ISMSの実効担保装置としての懲戒規定整備のあり方」などというのを検討してくれたら、すぐにコンサルで使えるのですが。

次の「個人情報保護法全面施行後の初等中等教育機関の個人情報保護の現状と問題」は、実証的で非常に面白かい報告でした。これは小学校・中学校・高等学校の先生に対して実施した個人情報保護に関するアンケートの結果報告ですが、かいつまんで紹介すると「個人情報の持出しに必ず管理職の許可を要する」学校は10%前後、「私用PCの使用」は7割の学校で認められていて、個人情報保護に関する研修を受けたことがあるのは3割に達しません。うーん。また、発表者が「教育の現場では保護者や本人からの要請で個人情報を隠そうとする傾向も出ていますが、個人情報を出さなければ社会生活は営めないので、どういうときに出すべきかを見極められるようにする教育が必要」と言っておられたのは、まさしくその通り。

「行政情報への国民のアクセスの確保について」は、条約や協定・議定書といった法的拘束力を有する国際文書(広義の条約)、さらには国際機関の決議・勧告について、「公定訳」が告示されていないものが多々あり、しかも告示する・しない明確な基準がないことを確認した上で、国民のアクセス権の観点から行政手続法の中に告示のルールを規定すべきとしています。その趣旨には賛成するのですが、検索手段の限界もあって調査に網羅性の保証が欠けていたため、現状分析に客観性が不足したのがまず残念。またこれは質疑応答でツッコミが入るだろうなと思ったのですが、国民のアクセス「権」を提案の中心に据えるならその「権利性」をもとに現状に対する法的評価が可能なはずで、案の定「国が公定訳を告示していないことで、その不作為責任を問えるのか?」という質問が出ました。憲法7条は「条約を公布すること」を天皇の国事行為と定めていますが、この「条約」とは上記の国際文書のどこまでを指すのか、また公布は国語(日本語)によってなされなければならないのか、といった立論とも関わってきますが、少なくとも国会での承認の対象となるのは当該条約の正文(通常は英語か仏語)で、日本語訳は審議のための参考に過ぎないという位置づけですから、国会の承認結果を正しく告示しようとすれば、それはむしろ正文の方が正しいということになります。だんだん頭の体操のようになってきたので、この件はこのへんで……。

午後の基調講演の最初は、国際大学GLOCOM客員教授の名和小太郎先生の「セキュリティ:歴史と理念」。1970年代のIBMによるアンバンドリング(H/Wとサービスとの分離)がコンピュータの低価格化をもたらすとともに、無数の部分最適システムの登場と全体制御責任の混沌の契機ともなったという立論から「セキュリティ文化」についてのお話しが展開しましたが、予稿集に載せられた資料とはかなり順番を変えてもっぱら「語り口」で進める講演は、なんだか煙に巻かれたような気もするものの不思議に話がつながっていって最後まで聞かされました。

基調講演の二番手はジャーナリストの佐々木俊尚氏。「インターネット時代のジャーナリズム – その虚実を探る」という演題の論旨は、かつて新聞社やテレビ局の権威によって成立していた読者とマスメディアの関係がブログを中心的道具立てとするWeb2.0の発展によって構造変化を起こしており、インターネット上の「アテンション」を集める個人の主張が世論形成の中心となりつつある、しかしそこには情報の正確性の保証の問題や極論になだれを打つサイバーカスケードの危険性が存在し、情報の受け手の側に一定の情報リテラシーがなければ衆愚化につながりかねない、というもの。大変明快な論理構成とよく通る低音での巧みな語りで惹き付けました。ちなみに、本旨から多少はずれる面もありますが、印象的だった解説や表現をまったく断片的に順不同で採り上げると……。

  • 集合知を無条件に肯定してしまっていいのか。「みんな」って誰?ノイズも多い。プロの知の重要性は?
  • ネットイナゴ:畑に群れをなしてたかるイナゴのようにネット上で暴威を振るう集団→ブログ炎上。
  • 2007年問題。団塊世代の大量定年の後に、団塊ブロガーの古代なsphereが出現するのではないか。なにしろ行動は伴わないが喋るのは好きというのがこの世代だから。
  • プラットフォーム支配。ネット上の4大サービス主体 Google / Amazon / Yahoo! / Apple。日本の世論形成がアメリカや中国に置かれたサーバの上でなされる時代の到来。

最後は、上記佐々木氏に著名アルファブロガー3名を加えて「ネット・ジャーナリズムの可能性」と題するパネルディスカッション。いろいろな論点について、パネラー各氏の意見を面白く拝聴しました。主要な論点の一つは、ブログという発信手段があまねく行き渡る中でプロのジャーナリズムは存在意義を持ち続けられるのか、という直前の基調講演とも通底する問題で、新聞社は社会面・ラテ面で稼いだお金でアフリカに特派員を送っている、という佐々木氏の説明は説得力がありました。ブロガー氏はNPOも自ら発信する手段を手にするようになったと指摘しましたが、これに対してはたとえば内戦地域のように取材に危険を伴う(プロの行動力を要する)場合はどうかという反論が成り立ちます。また、Webメディアがエコノミーと結びつく(カネにならない情報は流通させない)ことの危うさも指摘されていました。ここでは、パネルディカッションを聞きながら思い付くままにメモした自分の「連想」を記しておきます。

  • メディアに対する(たとえば政党や暴力団からの)抑圧に抗して情報発信を続けることが報道機関の使命として認識され、またそれをマスコミはある程度組織力によって成し遂げてきたと思うが、個人発信者にそのようなリスクはとれるのだろうか?
  • 朝日新聞は朝日新聞、赤旗は赤旗、とそれぞれのメディアにはカラーがあり、読者はそうしたバイアスをある程度織り込んで記事を評価しているはずだが、個人発信者にそのようなバイアス(スタンスと言ってもいい)の一貫性は期待できるのだろうか?
  • 上記と関連するが、発信者にしても知見の広まりによって過去の主張を変更(否定)したくなる場合が出てくるだろう。しかしGoogleのような巨大ストレージが全ての発信履歴をキャッシュしており、消し去ったはずの過去の立論が検索によって掘り起こされ、流布される可能性は極めて高い。これは発信者にとってリスキーではないか?

登壇者各位の真摯な報告や議論を聞き流しつつ、あれやこれやといい加減な感想を予稿集の余白に書き散らしながら過ごした一日でしたが、「法学会」という響きの硬さのわりには理論構成の緊密さよりも問題意識のビビッドさに重きを置いているようでその柔軟さが好ましかったし、一方でそれでも午前中の報告者3人は立法論につながる提言を行うというこの学会の基本線をしっかり踏まえていることが感じられたのも好感が持てます。

ここ数年、情報セキュリティマネジメントをベースに技術寄りの学習を重ねてきましたが、そろそろ自分の原点であるリーガルに立ち返った学習プランを持つのもいいな、と思いながら会場を出ると、くだんのH2ロケットがきれいにライトアップされて待っていてくれました。