少女

2008/12/06

深海のYrr』に続くSFつながりで、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』の話。

寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた。

というオープニングが早くもスケールの大きさを予感させるこの作品は、原初の海の情景、アトランティスの崩壊を目撃するプラトン、悉多達太子の求道、エルサレムでのイエス処刑を経て、いきなり西暦3905年の荒廃しきったトーキョーに飛び、惑星開発委員会が置かれたアスタータ50でのMIROKUとの戦闘ののち、ついにはアンドロメダ星雲の第八象限の惑星で圧倒的な寂寥感に包まれつつ幕を閉じます。

光瀬龍の作品の中でもこの『百億の昼と千億の夜』の人気がことに高いのは、そのスケールの大きさや全編を貫く無常観もさることながら、主人公のひとり阿修羅王の魅力に負うところが大きいと言えるでしょう。この作品の中では、阿修羅王は美少女の姿をとって読者の前に現れ、決して勝つことのない戦いを戦い続けます。

この作品は萩尾望都によって漫画化されており、私は『週刊少年チャンピオン』での連載(1977-78年)をリアルタイムで読んでいたクチです。以下は世界の破滅の真相を究めるべく兜率天を訪ねた悉多達太子が初めて阿修羅王と対面する場面の叙述ですが、漫画版の中でもこの出会いはとりわけ印象的に描かれており、そこに登場する阿修羅王の造形には読者の心をわしづかみにする魅力があります。

はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅王か」
少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それににつかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。

阿修羅王の澄んだ、黒いややきついまなざしに心をとらえられたのは悉多達太子だけでなく、萩尾望都自身も、そして彼女が描く漫画の読者のすべてもそうだったことでしょう。

しかし、なぜ『百億の昼と千億の夜』では阿修羅王は少女の姿をとっているのか?その謎を解明したのが『SFマガジン 2008年5月号』に掲載された宮野由梨香氏の評論「阿修羅王は、なぜ少女か」で、この評論は第3回日本SF評論賞を受賞しています。その中で宮野氏は『百億の昼と千億の夜』の3種類のテキスト(「初出」=『SFマガジン』連載版(1965-66年)、「旧版」=ハヤカワ文庫版(1973年)、「新版」=ハヤカワ文庫新装版(1993年))のうち「旧版」に付された「あとがきにかえて」を手掛かりに、この作品がすぐれて光瀬龍の私小説としての構造をもっていること、そのことを萩尾望都ですらも見抜くことはできなかったであろうことを明らかにしていきます。

宮野氏の立論をかいつまんで記すと、次のようです。

  • 「旧版」の「あとがきにかえて」は、本編を書き終えて素に戻った作家の言葉ではなく「光瀬龍」による作品として書かれており、そこに「経典によれば」として紹介されている(一般に流布する阿修羅王説話とは逆の内容を持つ)阿修羅王と帝釈天との戦いの由来譚自体が光瀬龍による創作である。
  • 萩尾望都が『百億の昼と千億の夜』の漫画化に取り組むに際して光瀬龍に電話したとき、光瀬龍は「好きに描いてください」と言った後に「ところで、阿修羅王って男でしたっけ、女でしたっけ」と聞いてきたので萩尾望都は仰天した。『百億の昼と千億の夜』(この時点では「旧版」)は転輪王を父、原初の海または《ディラックの海》を母とする家族の物語の構成をとっていると読め、萩尾望都もこれを「少女の自己認識の物語」と読んだのであって、萩尾望都にとっては阿修羅王は少女でなければならなかったからだ。
  • しかし光瀬龍にとって、この「父」は自分の結婚に際し妻となる人の家を維持するために改姓(婿入り)を余儀なくさせた妻の父であり、この人物に対する光瀬龍の鬱屈とした思いが作品にこめられている。若き日に妻となる人との出会いによって自らの中に修羅を抱え込んだ光瀬龍は、本作の中でも悉達多太子に見出される阿修羅王(最初は兜率天で、次は未来のトーキョーで)というかたちで自分の過去を再現したために、阿修羅王は彼にとっても少女でなければならなかったが、しかし本作は「少女の自己認識の物語」ではないという光瀬龍の思いが「男でしたっけ、女でしたっけ」につながる。
  • 「初出」では転輪王は阿修羅王の手によって放射線にさらされることにより殺される(父殺し)のに対し、「旧版」ではこの点をぼかし象徴性を高めた代わりに、「あとがきにかえて」の中で乾脱婆王の美しい一人娘を求め戦いを起こした阿修羅王が天ママ輪王の命を受けた帝釈天との間に決して勝つことができない戦いを続ける創話を記すことで、光瀬龍は私小説としての補強を図った。

宮野氏はまた、3種類のテキストの異同、とりわけエンディングの違いを見比べていくことによって自らの立論を補強していきますが、その記述によって私は初めて、「初出」では転輪王の正体が地衣類だったこと、《シ》が《死》であったこと、この世界の外にあって影のように会話を交わすものたちの世界へ阿修羅王が送り込まれ、そこでオリハルコンの球体に包まれた重力場空間=我々の世界が影たちの実験の一つに過ぎなかったことが明示されていたことを知りました。さらに「初出」から四半世紀を経て最終改訂が加えられた「新版」のラストに光瀬龍が「ただのこだわり」として冒頭の寄せてはかえしのリフレインを再び配置し、そこに「ああ。その幾千億の昼と夜。」と一人称の慨嘆を加えつつ、懐かしい原初の海へ還りたいと願ってもかなわない阿修羅王の喪失感の吐露で全編を締めくくったことによって、「旧版」までの構成では物語の途中で悉多達太子に見出されるかたちで登場していた阿修羅王の位置付けが変わり、本作が最初から最後まで阿修羅王の目線をもって叙述される「阿修羅王の物語」となったことも宮野氏によって指摘されており、非常に興味深いものでした。

ここからは私見になりますが、多くの気づきを与えられたこの評論ではあるものの、主題である「阿修羅王は、なぜ少女か」という命題については今ひとつすっきりとした回答を得られていない印象も受けました。むしろ端的に整理するなら、阿修羅王(少女)と出会うことで修羅の戦いを続ける宿命を自らも背負うことになった悉達多太子(若者)が作家の直接の投影であり、最後に虚数空間に消えた悉達多太子の声を阿修羅王に届かせることで彼の人格を阿修羅王に合流させた、とした方がわかりやすいのですが、いかに私小説とはいっても実在の人物と作中の登場人物を一対一で対応させるのは手法として浅すぎますし、後に「新版」でわざわざ結末の数行を加えて「阿修羅王の物語」としたこととも整合しませんから、この整理にも無理がありそうです。

ともあれこの評論は、光瀬龍ファン、あるいは『百億の昼と千億の夜』のファンなら必読であることは間違いありません。