胡桃

2014/02/26

今日は福岡への日帰り出張。搭乗手続に初めてiOSアプリのPassbookを使ってみましたが、これは便利でいいですね。データの取り込みは簡単で、手荷物検査とボーディングゲートの二ヶ所でバーコードリーダーにiPhoneをかざすだけ。ただし、iPhoneの充電状態に目を配らないと不測の事態に陥るリスクもないではないですが……。

さて、今回は空港と飛行機の中で過ごす短時間のうちに読めるものを出張の供に連れていきました。それはE.T.A.ホフマンの『クルミわりとネズミの王さま』(1816年)。先日アメリカン・バレエ・シアターの「くるみ割り人形」を観てから、その原作が読みたくなってすぐにAmazonで購入したものです。首尾よくこの一日で読み通すことができましたが、なるほどこれは、バレエの筋書きとはずいぶん違っていました。

バレエの初演(1892年)では、第1幕でクリスマスパーティーの情景がマイム中心に演じられ、くるみ割り人形がねずみの王と戦って主人公クララの加勢により勝利し王子の姿を取り戻すと、雪の国を通り抜けて第2幕で金平糖の精の国へ行き、そこでさまざまな国のダンサーによる歓迎の踊りが続くというもので、ストーリーは完結せずにただ楽しく終わってしまいます。このため、後世の演出家は末尾にクララが自分のベッドの中で目覚める場面を加えることで、金平糖の精の国での出来事がクララの夢であったこと、この体験を通じてクララの人間的成長が実現したことを暗示するようにしました。しかしそれでも、ドロッセルマイヤーは何者であるのかということや、ねずみの王とくるみ割り人形の関係などは相変わらず不明なままに終わっています。

ところが、原作を読むと次のようなことがわかりました。

  • 主人公の名前はクララではなく、マリー(「クララ」はマリーがプレゼントとしてもらった人形のひとり)。
  • ドロッセルマイヤーは、かつてある王国の宮廷時計師兼秘薬調合師。
  • その王国ではピルリパートと名付けられた美しい姫が生まれたが、宮廷を追い出されたねずみの女王の呪いによって醜い姿に変えられてしまった。
  • ドロッセルマイヤーは呪いを解く手だてとして、クラカトゥクくるみの殻をある条件を満たした若者に割らせて、その実を姫に食べさせればよいことを見つけ、親友の宮廷天文学者と共に長い旅を続けた末、自分の故郷ニュルンベルクでクラカトゥクくるみと若者とを見出した。その若者は、ドロッセルマイヤーの甥だった。
  • ドロッセルマイヤーの甥は、首尾よくピルリパート姫を元の美しい姿に戻すことに成功したが、その際に図らずもねずみの女王を踏み殺したため、今度は自分が醜い姿=くるみ割り人形になってしまった。
  • くるみ割り人形の呪いは、ねずみの女王の息子でねずみの王となった七つの頭を持つねずみを退治し、ある女性が醜さにもかかわらず愛を捧げてくれたら、解ける。

こうした背景がわかっていれば、くるみ割り人形の物語はすんなりと理解できます。

原作では、くるみ割り人形が率いるおもちゃの兵隊とねずみの群れとの戦いの後も、マリーはねずみの王から夜毎に脅迫を受けて、自分の大切なお菓子や人形をねずみの王に蹂躙されるという苦難を経験するのですが、くるみ割り人形の求めを聞き取って剣を与えたことで、遂にねずみの王は倒され、くるみ割り人形は自分の美しい王国へマリーを誘います。しかし、そこで楽しいひと時を過ごしたマリーがふと気を失ってから目を覚ますと、そこはシュタールバウム家のベッド(ここはバレエと同じ)。マリーは自分が体験したことを両親に説明しますが、まったく信じてもらえません。ところが、その後のある日シュタールバウム家を訪れたドロッセルマイヤーの甥は、自分はあのくるみ割り人形で、魔法が解けて人間の姿を取り戻したことをマリーに明かし、今は自分が王となっているお菓子の国へ、マリーを王妃に迎えたいと告げます。

最後にマリーが若いドロッセルマイヤーと共にお菓子の国へ旅立ち、そこで結婚式をあげて幸福に暮らすという、幻想と現実との境目が溶けたかのようなエンディングは、ホフマンの作風の特徴であるようです。そしてこの、最後の場面の記述マリーは、いまでも、…(中略)…世にも素晴らしいふしぎなものが、それを見る目がありさえすれば、いたるところに見られる国のお后さまだということですは、この作品の主題を端的に示しているように思えます。純真な心(それを見る目)の持ち主であるマリーには、お菓子の国は現実の存在として見えており、それゆえにそこにある幸せを自分のものにすることができたということなのでしょう。しかし、そのためにはマリー自身も何度かつらい目に遭わなければならなかったという点も、重要なポイントです。だとすれば、現在の主流のバレエ演出のように、夢の中での体験をクリスマスの一夜限りの出来事とし、さらにこれを現実世界でのクララの成長=大人になることのステップとして描くことは、原作の意図を反映していないことになってしまいそうです。

なお私は観たことがありませんが、ローラン・プティ版の「くるみ割り人形」では、若いドロッセルマイヤーがクララを迎えに来る場面がラストに置かれているそう。この演出も、いつか観てみたいものです。ちなみに、ローラン・プティ(1924-2011)のバレエは2003年に「ノートルダム・ド・パリ」「デューク・エリントン・バレエ」、2004年に「ピンク・フロイド・バレエ」を観ていますが、そういえばこの頃はまだ上野水香さんが牧阿佐美バレエ団にいたんだなと妙なところで感慨にふけってしまいました。