理由

2016/01/03

年末から年始にかけて、ポル・ポトにまつわる二冊の本を読了。山田寛氏『ポル・ポト〈革命〉史』と舟越美夏氏『人はなぜ人を殺したのか』のいずれもジャーナリストの手になる著作ですが、前者は著者自身の体験も交えつつポル・ポト時代の始まりから終わりとその後に至るまでをほぼ時系列に沿って叙述したものであるのに対して、後者はポル・ポト政権の中核にいた人物たちへのインタビューをまとめたものとなっています。

かつて見た映画『地雷を踏んだらサヨウナラ』では、クメール・ルージュに1973年に処刑されたカメラマン一ノ瀬泰造の友人ロックルーも粛清の対象となったことが最後に紹介されていて、それ以来、あのカンボジア内戦の中でなぜ同胞が同胞(とりわけ知識人)を虐殺する事態が起こったのか、一度しっかり調べてみたいと思っていたのですが、ようやくここにきてその取付きに辿り着いたというわけです。

1975年にロン・ノル政権を打倒してプノンペンを制圧してから1979年にベトナムの後押しを受けたヘン・サムリン軍の攻勢に首都を離脱するまでのほぼ3年8カ月間の間に、ポル・ポト政権は、カンボジアの総人口約800万人のうち150万人ほどを死に追いやったと言われています。農業中心の共産主義社会の構築を目指した政権の政策は都市住民を農村へ追いやり、施策の失敗もあって多くの餓死者と病死者を出したのですが、150万人の内の3分の1は粛清によるものと見積もられています。ポル・ポトを始め政権の中枢にいたメンバーの多くはフランス留学の経験をもつインテリで、パリ滞在中に共産主義革命による祖国の自立を目指すようになった経緯があるにもかかわらず、政権をとった後にはロン・ノル政権の軍・政府関係者はもとより知識人や教師、芸術家などを次々に虐殺の対象としていきました。特に、S21という治安警察がツールスレン監獄で行った大量虐殺は「囚人14,000人、生還者7人」と言われる程のもので、しかもその監獄では「腐った知識に染まっていない」大勢の少年たちが看守を勤めていたとされています。

では、なぜあの虐殺が起こったのか?

ポル・ポトは毛沢東の共産主義革命思想を参照した節があり、大躍進運動や文化大革命の悲惨さ(たとえば『ワイルド・スワン』参照)を連想させる面もあるのですが、その中国にしてもポル・ポト政権に対してより穏健な進め方とするよう忠告したそうですし、粛清の苛烈さと言う点ではむしろスターリン時代のソ連を比較の対象とした方がいいのかもしれません。いずれにせよ、実は上記の二冊を読んでもまだ、同胞に対する大量虐殺のはっきりとした理由が見つけられていません。『ポル・ポト〈革命〉史』は、偏執病的な自主独立精神の暴走、革命成功が自分たちの実力による勝利であるという誇大妄想、国土の実情に合わない借り物の施策、粛清によりブレーキがかからない政権の構造などをポル・ポト政権の革命の失敗にあげていますが、この最後の理由にあるように粛清が粛清を生む構図になったのだいう説明では、粛清の根本原因がわかりません。一方『人はなぜ人を殺したのか』でも、政権ナンバー2のヌオン・チアや外交担当副首相だったイエン・サリ、国家幹部会議長だったキュー・サムファンにインタビューできているものの、回答者の保身もあって粛清の本質に切り込めているとは言いにくいところがあります。強いて言えば、ポル・ポトの学友でその秘書を勤めたこともある人物の次の言葉が当時の様子を率直に伝えていそうです。

われわれの夢だったんだ。フランスに支配され、命令される立場のカンボジアではなく、独立し、発展したカンボジアをつくるということが、それが実現できると固く信じていた。 ある時、私のその実現のために選んだ道を進み始めた。だがある時期からは、ほかの選択をしようにも道がなくなった。生き延びなければならなかったからだ。あの日々をどう形容すればいいのか。

この言葉には、他人を粛清の対象にしなければ自分が粛清される、そうした緊迫した時代の雰囲気が感じられます。

カンボジア内戦の背景にはインドシナ独立運動からベトナム戦争に続く歴史のうねりがあり、そこに共産主義の拡張を恐れてカンボジア国内に270万トン以上の爆弾を投下した米国や、親ソの立場をとるベトナムへの牽制の必要性からポル・ポト政権を支援した中国、内戦を国境の向こう側にとどめたいタイの関与などの諸外国の策動があります。

(ポル・ポト派幹部を裁く)裁判が開かれたらまずキッシンジャー元米大統領補佐官を呼んで、クメール・ルージュを権力の座につける結果を招く過程で、ニクソン大統領と彼が果たした役割について証言させるべきだ

という声があるように米国にとってはインドシナ政策の迷走が生んだ悲劇であり、一方ポル・ポト支援国にとっても虐殺の実態は都合の悪い事実。日本もまた、諸外国に先駆けてポル・ポト政権と外交関係を樹立し政権高官を商談のために東京に迎えた経緯があります。こうした諸外国のパワーバランスの時代背景を見ずに、粛清の連鎖の原因をポル・ポトの個人的資質に帰してしまうのはフェアでもなければ事実に即してもいないでしょうが、それでもポル・ポトがあの悲惨な失敗に終わった革命の主役であったことは間違いありません。残念ながら、ポル・ポトは1997年に起きた派内での虐殺事件の責任を問われて拘禁され、1998年4月に死去(毒殺とも自殺とも言われています)しているため、ポル・ポト自身にこの虐殺の4年間を語らせる機会は永遠に失われていますが、ヌオン・チア、キュー・サムファンについては特別法廷の審理が続いており、この裁判を通じて史実の解明が進む可能性はないではありません。ただし、カンボジア政府が裁判の進行に消極的である上に、被告人はいずれも極めて高齢化しており、その存命中に裁判が終了するかどうかが強く懸念されています(現に、イエン・サリは裁判中に死去、その妻でやはり政権の指導者の1人であったイエン・チリトは認知症が進み公判停止)。

そういえば、かつてアンコール・ワットを訪問したときにガイドしてくれたカンボジア人女性のサマニーさんは1970年代に日本にいたことがあるという話でしたが、それは留学だったのか政府の仕事の関係だったのか、仕事の関係だったらどの政権でのことだったのかを聞けばよかったと、今にして思いました。ともあれ、このテーマについてはしばらく時期をおいて、いずれ再び掘り下げてみようと思います。

〔2016/11/24追記〕

2016年11月23日、カンボジア最高裁判所において、ヌオン・チア元人民代表議会議長(90)とキュー・サムファン元国家幹部会議長(85)に対し終身刑の確定判決が言い渡されました。