戒律

2016/10/26

東野治之著『鑑真』を読了。鑑真(688-763)と言えば、井上靖の名作『天平の甍』でもおなじみ、五度の失敗の末にようやく渡海を果たし、日本に戒律をもたらした名僧として有名ですが、本書はその来日の苦労譚はさらりと流して、そもそも鑑真がどのような学問を修めていたのか、何を実現するために日本に来たのか、また結果として日本の仏教に何をもたらしたかを説こうとしています。

まず、鑑真が学んだものは三つ。南山宗の律学、相部宗の律学、そして天台宗です。戒律とは、道徳的な戒めである「戒」と僧団生活の規律である「律」からなり、本来インドの小乗仏教において自治的な僧団を形作った僧たちが信仰生活を送る規範として立てたものですが、この戒律を移植した中国では大乗仏教における戒律の受容を追求したのが道宣の南山宗や法礪の相部宗で、一方、天台宗は法華経を根本経典とする大乗仏教の宗派で、後の最澄につながります。

そして、733年の渡唐以来ずっと日本に戒律の師を招くという使命を果たすべく人選を続けていた2人の日本人留学僧・栄叡と普照は、ついに鑑真の名声を耳にして、742年に揚州の大明寺で律を講じていた鑑真のもとに現れました。538年の仏教伝来以来200年がたち日本でも多くの僧尼・寺院が生まれていましたが、正式の受戒を経ずに出家する僧の増大が朝廷によって徐々に問題視されつつあったところへ、8世紀(=平城京遷都の負担が民衆にのしかかった時期)に行基とその集団の活動が盛んになり生業を捨て勝手に出家する者が増えたことが直接の契機となって、正しい戒律に基づく僧尼の管理を行う必要性から戒師招聘が国の政策となり、共に興福寺僧である栄叡と普照がその使命を与えられていたのでした。ここで、本来は国家から独立した僧団の自主的な規律であるはずの戒律を、日本においては国家が統制のために必要としたという点が日本での戒律の受容のその後において大きな意味を持ちます。

ともあれ、このとき鑑真は既に50代半ばに達しており、2人の日本人僧の要請を受けて弟子たちに日本へ渡る者はいないかと呼び掛けましたが、渡海の厳しさを恐れる様子を見て、自ら次のように語ります。

これは仏法に関わることだ。どうして命を惜しもうか。みなが行かないなら、私が行く。

この後、日本への密航の試みは五度の失敗を重ねることになるのですが、そのうち3回は出航する前に妨害を受け、1回は長江の河口を出たところでの遭難に過ぎないものの、第五次は海南島まで流された上に栄叡は病没し、鑑真自身も失明するという悲運にも見舞われます。しかし、753年に20年ぶりに派遣された遣唐使に請われた鑑真は改めて渡海の決意を固め、船団四隻のうちの第三船に乗船します。大使の乗った第一船は唐に吹き戻され、第四船はベトナムまで流されたものの、普照が乗る第二船と鑑真の第三船は沖縄経由で日本に到着することができました。

奈良の都に着いて歓待を受けた鑑真は、聖武太上天皇から授戒一人の勅を受けて本格的な活動を開始することになりますが、まず行ったのは東大寺別当の良弁に依頼して華厳経・大涅槃経・大集経・大品経を借り出し、これらの経典が正しく日本に伝わっているかどうかを確認することでした。その上で東大寺大仏殿の前に築かれた戒壇で、聖武太上天皇夫妻や孝謙天皇以下の人々に対して具足戒を授け、いよいよ本格的に授戒を開始します。とは言うものの、それまで僧として活動してきた者たちの中には鑑真から授戒しなければ僧として認められないのか、自ら戒律を守ると誓えば足りる(自誓受戒)のではないのか、という一種の拒否反応も起こり、必ずしも鑑真の活動がスムーズに進んだわけではなかったようです。しかし『天平の甍』にも描かれているように、普照が瑜伽師地論を引いて反対勢力を論破したことで方向性は定まり、東大寺に恒久的な授戒施設である戒壇院が造営されて、日本における戒律の定着への道筋がつけられることになりました。

←東大寺戒壇院

758年、大僧都の職を解かれ「大和上」の称号を与えられて公務から引退した鑑真は、戒律を学ぶ僧たちの実践道場として唐招提寺を建立することになります。その際、東大寺の財源の一部を唐招提寺の造営にあてたことから鑑真は非難を受けることになるのですが、ともあれここに東大寺戒壇院での授戒と唐招提寺での研修という機能分化が実現し、そのことを見届けて763年、数え76歳の鑑真は西に向かい足を組んで座ったまま息を引き取りました。

←唐招提寺金堂

鑑真は、仏像や経典、仏具などのほか、『大唐西域記』などの書物や王羲之の書、さらには各種香料・薬物などを日本にもたらしましたが、結局のところ鑑真来日の眼目であった戒律は、本来の形で日本に根付くことがありませんでした。もともと律令国家が鑑真を招聘したのも僧侶の資格審査の厳格化を狙ったものであって、本来の意味である僧団の自治的な規律ではなかったために、東大寺戒壇院での授戒システムは急速に形骸化してゆきます。

そのことへのアンチテーゼとなったのが最澄の天台宗における大乗戒であり、具足戒を守ることの厳しさを認識しつつ、比叡山に独自の戒壇を設けて菩薩戒を授け、その後12年間比叡山に籠って修行を続けることを最澄が出家者に義務付けたのは自律的な僧団を作り出す試みではなかったか、そう考えれば、鑑真がもたらした天台経典を学んで教理を深めた最澄は、小乗戒の否定者のように一見みえて、実は鑑真の精神の後継者であったと言うことができるのではないか、というのが筆者の考察です。

鑑真の墓所は唐招提寺の境内にありますが、本当のところはここに鑑真が眠っているかどうか定かではありません。しかし著者は、中国では古くから祖師に当たる高僧をゆかりの寺院に葬ることは稀ではないと述べた上で、鑑真の没後に宝亀の遣唐使を送って来日した唐使の高鶴林の次の漢詩を引用します。

上方傳佛教 名僧號鑑真
懷藏通隣國 真如轉付民
早嫌居五濁 寂滅離囂塵
禪院從今古 青松遶塔新
法留千載住 名記萬年春

「禅院」とは唐招提寺の伽藍、「塔」は鑑真の墓。訪日したら鑑真に面会したいと思っていたのに着いてみれば既に亡くなっていた無念さを詠むこの漢詩の作者・高鶴林は唐招提寺を訪れたのであろうから、寺と墓は近接していたはず。よって現在の墓所に鑑真は眠っているとみるべきだろう、と著者は推測しました。

私も、そうあってほしいと願います。