修羅

2019/07/24

シテ方四流若手能楽師によるトークセッション、ということで第5回能楽特別講座。前回は「高砂」を取り上げましたが、今回は特定の曲名ではなく「修羅物」(武人がシテになる曲)というジャンル指定で、会場も国立能楽堂の講義室では収まりきらなくなり目黒の雅叙園となりました。しかし解説は例によって、金春流:中村昌弘師を進行役とし、ここに観世流:武田宗典師、宝生流:髙橋憲正師、喜多流:大島輝久師の三人が加わるという不動のラインナップです。

まずは修羅物とされる曲の種類の確認から。

このうち「巴」は女性がシテとなる曲で、宝生流ではこれを修羅物としては扱っていないようです。

四人がそれぞれどの曲を勤めたことがあるかを確認しあうところからスタートしたのですが、「箙」がこれらの中では最初に取り組む対象となりやすいのに対し、三修羅とも呼ばれる重い扱いの「朝長」「実盛」「頼政」の中でもとりわけ「朝長」はどの流儀でも還暦くらいからになる模様。ただ、個人の会が増えてきたことでそうした扱いにも変化が生まれつつあるそうです。

次に写真を示しながら装束の解説。勝修羅の基本形は「老松に旭日」の扇と法被姿、負修羅の場合は「立波に入日」の扇で長絹。もちろんそれぞれの工夫や小書によってバリエーションがあり、ときにはその思い切った工夫が裏目に出ることもあるそうですが、装束の選択が家元指定となる宝生流、会によって家元からリストを渡される観世流、円満井会管理の装束の中から選ばせてもらえる金春流、他流からの借用も含め「選び放題」の喜多流といった具合に、工夫できる余地にも流儀による違いがあることがわかりました。

また、「田村」についての説明では、金春流では小書「白式」がつくと狩衣になり、喜多流でも同様の装束になる場合があるもののそのときは「白田村」と曲名自体が変わり、観世流では小書「替装束」で唐冠を戴き軍配を持ち刀を背負う、といった具合にバリエーションが示されましたが、宝生流では「田村」には小書がないそう。

ついで修羅物ならではの動きとして刀を抜く所作をそれぞれに実演して見せてくれたところ、金春流が最も動きが複雑で、宝生流が最もシンプル。その刀に見立てた扇の持ち方が喜多流だけ反対(要の方を剣先とする)だったので高橋師は大島師から「それでは手が切れるでしょう!」とツッコミを入れられていました。

さらに半身の構えを演じるコーナーになり、開いた足の角度や前後の足への体重の掛け具合がそれぞれに説明されましたが、ここで喜多流の大島師が「90度には開かない」「足を引くのではなく回す」「体重は均等」などと熱弁をふるい(もっとも「15分くらいかかりますよ」と言っていたわりには終わってみたらそこまでかからず、自分で「5分でしたね」)。そして2回転する動き(流儀によって「回り返し」とも)を確認しあったところで、前半が終了しました。

後半は仕舞ですが、次のような異流の組合せになるので自由に行うわけにはいかず、しかるべきところへの「申請」が必要とのこと。もちろんこの日の会のためにきちんと届け出がしてあるので「闇営業」ではありませんと大島師が説明して会場は大ウケ。

曲目 シテ 地謡
敦盛キリ 輝久 昌宏
田村キリ 憲正 輝久
八島 昌宏 宗典
経正キリ 宗典 憲正

しかし、実際に舞われてみれば、せまい壇上であるにもかかわらず舞を通じて示される武将の気位はどこまでも高く大きく、そして何よりも前半でのくだけた語り口とはまるで異なる力のこもった謡に引き込まれました。いや、引き込まれたというより修羅の世界に引きずり込まれたと表現した方が正しいかもしれません。

最後は質問コーナーでしたが、いくつかの質疑応答の中で面白かったのは扇の使い方です。流儀によって扇を差す場所も違えば、取り上げ方も異なり、ことにいったん床に置かれた扇を片手で取り上げる金春流のやり方に対し、喜多流の大島師は「片手なんて行儀が悪い」とけちょんけちょん。

他にも、出のときに袴に手を入れる(宝生流)か、仕舞を終えて下がるときに前向きのまま後ろに下がる(観世流)か膝を突き返して後ろを向くか、といった違いが次々に明らかになって出演者同士で驚きあったのち、中村昌弘師がかつて地謡の一番下っ端(金春流では前列の最も客席に近い方に座るそう)を勤めて足が痺れてしまい、這々の体で下がろうとした前の人との間が空き過ぎたために切戸口を閉められてしまったことがあるという悲惨な体験談が披露されたところで、時間となりました。

今回も楽しく、ためになる講座で2時間があっという間でした。おかしみだけでなく、随所にそれぞれの曲に対する深い洞察が垣間見えていろいろと気付きを与えていただいたのですが、一番心に響いたのは観世流の武田師の「『巴』は何回やってもいい曲だなと思う」という言葉。本当に能を愛しているということが伝わるしみじみとした語り口でした。