負号

2024/01/09

TOHOシネマズ渋谷で、映画『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督)を見てきました。これはゴジラ生誕70年、そして国産実写ゴジラとして30作目という節目の作品ですが、自分はもともとゴジラにはあまり関心がなく、映画館で見た記憶があるのは子供の頃に見た『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(1964年)とミニラが出てくる『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)、そして社会人になってからデビュー直後の沢口靖子さん目当てで見た『ゴジラ』(1984年)くらい。近年は渡欧する際の飛行機の中でレジェンダリー・ピクチャーズ制作の『Godzilla』(2014年)と『Godzilla: King of Monsters』(2019年)を見て活劇的な面白さを楽しんではいたのですが、それでもどちらかといえば『平成ガメラ三部作』(1995・1995・1999年)推しでした。しかし本作が昨年11月3日の公開以来ヒットを続けており、しかも批評家と観客の双方から絶賛されているという話を聞いて関心を持ち、予習代わりに『ゴジラ』第1作(1954年)をAmazonプライムで見てからTOHOシネマズ渋谷に足を運んでみたというわけです。

結論から言うと、確かにこれは見事な映画でした。特筆すべき事柄はいくつもありますが、いわゆる怪獣映画王道のカタストロフィと主人公たちの人間ドラマとがバランスよく配合される脚本の妙と、これを支えるVFXの迫真性は誰しもが認めるポイントだろうと思います。

まずはゴジラの造形ですが、映画開始の数分後に登場する「呉爾羅」は大きいとは言ってもジュラシックパーク的なスケール感なのに対し、戦後の米国による核実験(史実)で被爆したことで再生細胞がエラーを起こした結果生まれた「ゴジラ」は体高50mと巨大化しており、その迫力は圧倒的です。このゴジラと主人公たちとの接点は3回あり、まず小型の掃海艇が洋上で追われる場面(ゴジラが蹴立てる波の表現がすごい)、次に東京に上陸したゴジラが熱線を吐いて原子爆弾のような閃光とキノコ雲と爆風を生じさせる場面(ここでちらっと橋爪功がカメオ出演)、そしてクライマックスの洋上対決になりますが、過去のゴジラシリーズに散見された擬人化も偽善も一切拒絶した本作でのゴジラの姿は(映画館で見ている我々にとっても)恐怖そのもので、その迫力は文字通り筆舌に尽くし難いほどでした。

しかし本作の本筋はむしろ、太平洋戦争の中で心の中に闇を抱えた戦闘機乗りの主人公・敷島浩一(神木隆之介)がゴジラと戦い最終的にこれを倒すことによって彼の中の「戦争」を終えるといういわば再生の物語であり、そこに交錯する様々な登場人物もまた多かれ少なかれ自分にとっての「戦争」を引きずっているという構図が、終戦から日が浅い東京のカオスのような景観の中でリアリティをもって展開します。設定では本作でのゴジラとの戦いは1947年の出来事とされていますが、第1作の設定である1954年より遡った作品は(と言うより、制作時点より過去を舞台とする作品自体)これが初めてだそう。こういう設定にした理由の第一は第1作が描いた「戦争の化身としてのゴジラ」に対する敬意だったようですが、もう一つのポイントは『シン・ゴジラ』(2016年)と真逆のことをしたいという山崎監督の意図でした。つまり、現代に対して過去、陸に対して海、官に対して民、そして何より群像劇に対して個人の内面の掘下げです。この点で主要キャストの面々の演技はいずれもすばらしく、仮にこの映画からゴジラ登場シーンを取り除いたとしても十分見応えのある戦争(後)映画になっていました。ちなみに、ゴジラに対抗する人間側の道具立てとして重巡・高雄や駆逐艦・雪風ほかの軍艦、さらには太平洋戦争末期に開発されていた局地戦闘機・震電が登場するのも時代設定を活かした見どころです。

第1作に対するオマージュも随所に見られ、たとえば破壊される銀座和光(の時計塔)、死を覚悟の実況中継、ゴジラに咥えられる列車などは形を変えながらも再現されていますし、洋上対決でのフロンガスの泡はオキシジェン・デストロイヤーを、病院で敷島と再会する大石典子(浜辺美波)の眼帯はあの芹沢博士を連想させます。その典子から「浩こうさんの戦争は終わりましたか?」と静かに問い掛けられた敷島が何も言えずに泣きながら典子にすがりつく場面には胸が熱くなりましたが、典子の首筋の黒い模様がゴジラ細胞の感染(=爆風に飛ばされた典子が生存した理由)を暗示し、海中のゴジラの肉片が再生しつつある様子を描くラストシーンと共に本作終幕後の未来に暗い影を投げかける点もまた、第1作での山根博士の予言を思い出して慄然とさせられました。

あえて「?」と思った点を挙げるなら、出航しようとする雪風ほかの乗員たちの目の前でゴジラに投げ飛ばされた船がそこだけ妙に模型っぽく見えたことと、乾坤一擲のはずの海神わだつみ作戦がゴジラにさしたるダメージを与えているようには見えなかったこと。さらに海神作戦後半でゴジラの引き揚げが頓挫しかけたときに駆けつけた水島(山田裕貴)のベタな意気揚々さと、彼らが一瞬のうちにロープで駆逐艦を牽引する態勢に入るリアリティのなさも気になりました(実はロープを結ぶために時間を要したことでゴジラの再生が進んでしまったというつながりなのかもしれません)が、全体の重い空気に対し時にコミカルな味わいを付け足す水島は今現在の戦争を知らないすべての人たちを象徴したキャラクターだと言うプログラム内での山田裕貴自身の説明には納得です。

ゴジラと言えば伊福部昭の音楽も有名ですが、本作での音楽(佐藤直紀)が果たす役割も映像と同等に極めて大きいものがありました。さすがに明るすぎるフリゲートマーチこそ使われなかったものの「ドシラ、ドシラ」のテーマが出てきたときはほとんど鳥肌でしたが、むしろ本作オリジナルの重厚な楽曲群が映画全体のトーンを決定づけている感じ。したがって本作は、大画面かつ大音量で鑑賞できる映画館で見ることがマストです。