山荘

2024/03/24

山岸猛男『丹沢 尊仏山荘物語』(山と溪谷社)を読了。この本は昨年6月に調べもののために購入していたものの、通読はできていなかったことをふと思い出して八ヶ岳へ向かう旅のお供にし、行きの特急の中と泊まりの八ヶ岳山荘とで一気に読み通したものです。

筆者は昭和22年に塔ノ岳山頂に休憩所としての山小屋を開設し、2年後にこれを2代目尊仏小屋(初代尊仏小屋は昭和14年に横浜山岳会によって建てられたものの戦中に荒廃)として宿泊もできる山小屋に発展させた後、昭和30年の国体を契機に建設された尊仏山荘の管理人も務めて昭和62年の尊仏山荘改築の直後まで40年間にわたり塔ノ岳の山守りを続けた人物で、本書はその一代記。章立ては次の通りです。

  1. 裸で得た第二の人生
  2. 塔ノ岳の歴史と自然
  3. 山小屋暮らし
  4. 山に眠る
  5. 世代を超えて

「あとがき」に書かれている事情から推察するに本書の第1章から第4章までは書き下ろしではなく、過去に各種媒体に掲載した文章を加筆再録して構成されているようですが、第1章では筆者が生まれ育った朝鮮半島からの引揚げ後に一念発起して塔ノ岳に山小屋を開き、さまざまな苦労や出会いを重ねながら小屋と山とを守ってきた著者の歩みが読みやすい文体で綴られ、第2章は塔ノ岳概説、第3章はさまざまな話題(中には有名な「白装束のふたり」も)を徒然に採り上げたエッセイ集、そして重い話題を扱う第4章へとつながります。

本書を手にとってことに隔世の感を覚えた点が二点あって、ひとつは筆者も対応に苦慮したゴミ問題。昭和30年の神奈川国体と翌年の日本隊によるマナスル登頂が契機となって丹沢にも登山ブームが押し寄せ、塔ノ岳の山頂には登山者が残すゴミが散乱して大変だったという話が第1章の中に書かれていましたが、山のゴミは持ち帰るのが当たり前になった今の感覚からすると驚きです。しかし考えてみると、今から50年くらい前は列車の中で駅弁を食べ終えたら弁当箱は座席の下に放置するのが普通でした(私もそうした記憶があります)ので、驚くには当たらないのかもしれません。むしろ、ゴミ持ち帰りを登山者に定着させた粘り強い啓蒙活動を賞賛すべきなのでしょう。そしてもうひとつは、本書の表紙の写真にある塔ノ岳山頂の豊かなブナの木々です。かつて塔ノ岳山頂がブナに囲まれていたことはよく知られていますが、現在の山頂の様子(下の写真参照)を見知っている者にとっては、こうした写真を見るとやはりその時代の塔ノ岳の姿に憧れます。

第4章では、昭和29年1月に起きた尊仏山荘のアルバイト氏の大倉尾根での疲労凍死事故と同年11月の時ならぬ風雪の中での2件の遭難事故とが扱われています。どちらも詳細な状況の説明と共に筆者の悔恨や憤りが赤裸々に記されていて、引き込まれながら読み進めました。丹沢で雪の事故?と思う人もいるかもしれませんが、私も1988年には塔ノ岳山頂で50cmから1mの積雪に遭遇し縦走計画を中止した経験があるので、不思議なこととは思いません。ついでに過去の自分の山行記録を紐解いてみると、私が初めて塔ノ岳に登ったのは1984年ですからまだ筆者が尊仏山荘の管理人だったはずですが、このときは尊仏山荘に立ち寄っておらず、初めて尊仏山荘に泊まった1999年には既に管理人が代替わりしていたので、結局のところ山岸猛男氏にはお目にかかっていないことになります。

そして第5章は筆者の後を継いだ筆者の三女・篤子さんの「わが父、山岸猛男」とその夫の花立昭雄氏の「オヤジのあとを継いで」からなりますが、ことに篤子さんの20ページ以上にわたる一文が、綺麗事だけではすまない山岸猛男氏の実像を愛憎入り混じった筆致で包み隠さず描いていて読み応えがありました。ここでは、山小屋では客にもアルバイトたちにも人当たりのいい山岸猛男氏が家庭ではなかば暴君のように振る舞う様子が娘の立場から包み隠さず明かされていて、いやこんなこと書いていいのかなとハラハラするものの、それでも最後には父の人生を愛情のこもった眼差しで振り返っているところが素敵です。たぶん、篤子さんのこの文章がなかったら本書の価値は相当に減じていたことでしょう。

冒頭に書いたように、山岸猛男氏は昭和62年(1987年)の尊仏山荘改築の直後に山を降りているのですが、その直接的な理由は体力の衰え、そして膝の悪化だったそうです。しかしこの点について、花立昭雄氏は次のように書いています。

オヤジは、昔の小屋のことならなんでも知っていた。ところが、オヤジの全盛期だったときの、さまざまな思い出が詰まっていたはずの古い小屋は、小屋の新装にあたって取り壊されてしまった。……〔中略〕……オヤジの小屋番としての半生は古い小屋とともに終わったのかもしれない。

一方、そうして山を降りた山岸猛男氏自身は、第1章での自分史を次のように締めくくっていました。

今はもう山も遠くなってしまったが、気持ちだけは山にある。

私は、今までと同じように、山に登り続けるであろう。

この文章が氏によって書かれたのがいつのことかはわからないのですが、本書が刊行された1999年には筆者は特別養護老人ホームに入っており、もはやペンを執ることができない状態にあったことが篤子さんによる「あとがき」に次のように記されています。

あとどれくらいかわからない「生」の時間のなかで、父はいまだに小屋番をしています。今の父に同情してくださる方もありますが、私には最も幸福な時を過ごしているように見えます。父だけの世界にいて、知己の人たちとのおしゃべりを楽しみながら思い出を食んでいるのです。

本書刊行後、ほどなくして山岸猛男氏は彼岸へ旅立たれたそうですが、氏自身が書いていたように、その魂は今でもお盆の頃には塔ノ岳の山頂に戻ってきているのでしょうか?