続編

2024/03/15

グランドシネマサンシャイン池袋で、映画『デューン 砂の惑星 Part2』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)を見てきました。

フランク・ハーバートの傑作長編SF『デューン 砂の惑星』(1965年)をヴィルヌーヴが映像化したこの作品は二部構成で制作され、その第一部は2021年に公開されたのですが、迂闊なことに自分はこれを見逃しており、翌年、コロナワクチンの副反応のために自宅に逼塞しているときにAppleTVで見て第二部は決して見逃すまいと心に誓ったものです。

そんな待望の第二部は本来であれば2023年秋に公開される予定でしたが、アメリカの俳優組合のストライキの影響を受けて公開は半年遅れとなり、米国では今年3月1日、日本でも3月15日に公開されることになりました。そこで、これは公開初日に映画館に行くしかあるまい、それも見るならIMAXだ、とグランドシネマサンシャイン池袋の予約サイトでチケットをとったのですが、予想した通り第一部の方も期間限定でリバイバル上映されていたので、前日に同じくIMAXで第一部を見て復習した上でこの日の第二部に臨みました。

前作もそうでしたが、続編の今作は映像と音響の迫力がさらにすごい。前半ではサンドライダーのテスト、後半ではやはり砂虫を駆使しての突撃シーンが圧巻で、その重低音によって座席が振動するために凄まじい臨場感を味わうことができました。まずはドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の面目躍如といったところです。ただ原作ファンの立場からすると、原作の世界観は確かに相当程度に再現されていることを認めますが、それでもここまで人物の造形を変更するのかという驚きが先に立ってしまいました。

◎以下の文章では固有名詞の読みを映画の字幕ではなく矢野徹による翻訳版に即して記述します。

たとえば主人公ポウル(ティモシー・シャラメ)の母ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)は前作では純粋に息子を愛する母の顔だったのに今作ではベネ・ゲセリットの目的を自分のやり方で果たそうとするしたたかな策略家の姿を前面に出していますし、逆にフレーメンの指導者スティルガー(ハビエル・バルデム)は予言を盲目的に信じる迷信深い人物に堕してしまっています。また原作のラスト近くで印象的な役割を果たしたスフィル・ハワトが今作で出てこないのも残念ですが、それ以上にポウルと恋に落ちるチャニ(ゼンデイヤ)が最後にはポウルと袂を分かち砂漠へ帰るというラストシーンには驚愕しました。これは原作と異なるからおかしいという狭隘な価値観に基づく感想ではなく、映画を独立した作品として見たとしても二部作全体を通してのラストシーンがこれなのか?という違和感です。いつの間にこの映画はチャニの映画になってしまったのだろうか。それにこれでは原作の後継作品である『砂漠の救世主』のストーリーにつなげられなくなる、つまり『デューン 砂の惑星 Part3』が作れなくなるのでは?『砂漠の救世主』ではチャニの出産と死がクライマックスになるのだから。

もちろんいい方向に変更されている部分もあって、皇帝の娘イルーラン(フローレンス・ピュー)が随所に顔を出して難解なストーリーの背後を説明する役割を担ったのはよいアイデアだと思いましたし、マーゴット・フェンリング(レア・セドゥ)がとても印象的な場面を作り上げていたのはさすが。フェイド・ラウサ(オースティン・バトラー)の悪役ぶりは文句なしに最高ですし、原作では説明不足だった皇帝のアラキス親征や「聖戦ジハド」が起きた理由を端的に説明したのも一応はプラスに評価できます。前半でフレーメンの居住地(シーチ)の様子を民俗学的な視点から丹念に描いたことも興味深く、そして何よりもポウルとチャニとが砂丘の上で愛を確かめ合う極めつけに美しいシーンが魅力的です。

とはいえ全体を通して見ると、第二部の後半からポウルが徐々に人間的な魅力を失い、これと反比例するようにチャニの反神秘主義の主張が強まる構図の行き着く先では、感情移入(共感)できるキャラクターはもはやチャニだけというのもすごい話ですし、派手な戦闘シーンが多いにもかかわらず冒険活劇的な要素よりも宗教的な熱狂がもたらす恐怖が強調された印象があって、ヴィルヌーヴ監督にとっての本作のポイントはそこだったのかな?とすら思えてしまいます。政治劇として見れば原作が描く権力構造の中での皇帝=ギルド=ランドスラードの鼎立関係のうちギルドの役割(スパイスの供給を維持できなかった皇帝をギルドは支持しない)が削ぎ落とされてしまったのが物足りませんし、SFとしての原作(『砂漠の救世主』を含む)の重要なモチーフである主人公の予知能力の獲得=人間の精神の拡張と、そのことがもたらす破滅(個人にとっても世界にとっても)の克服という観点からもクイサッツ・ハデラッハとはそもいかなる能力の持ち主なのか、あるいはベネ・ゲセリットはなぜクイサッツ・ハデラッハを求めたのかといった点をもっと掘り下げてほしかったようにも思いました。

つまり、自分としてはこの映画は「確かにすごいけれど、でも何か違う」という印象です。

なお、字幕つきで見ましたが何箇所かで字幕が舌足らず、または間違っていると思える場面がありました。一例をあげれば、皇帝がハルコンネン男爵にムアドディブについて質問し、男爵がムアドディブ=ポウル・アトレイデだと知らずに受け答えする場面。男爵の両脇に控えるラッバンとラウサも口添えをしたところ、そのやりとりを聞いていたガイウス・ヘレン・モヒアムが横から皇帝に示した「They speak the truth」というハンドサインに「本当です」と字幕がついていましたが、ベネ・ゲセリットが真実審判師の役割を果たすという原作の設定を知っていれば「彼らは嘘をついてはいない」(つまり三人は本当にムアドディブの正体を知らない)となるはずです。ほかにも語られている主語が「We」なのに一人称単数を前提とした訳が付けられている場所があったりなどとあちこち気になったので、これからこの映画を見る人は日本語字幕にはあまり頼らない方がよいでしょう。