武蔵

2024/04/04

吉村昭『戦艦武蔵ノート』(図書出版社)読了。

吉村昭の出世作であり記録文学の傑作とされる『戦艦武蔵』(1966年)を初めて読んだのはたしか自分が中学生の頃で、父の蔵書の中にあった一冊を借りたものです。『戦艦武蔵』というタイトルだけ見ると、戦艦大和と共に大日本帝国海軍が建造した超大型戦艦の戦記もののように思われるかもしれませんが、実際には全体の4分の3が第二号艦(後の「武蔵」)の建造過程の叙述に当てられ、実戦に投入された後の武蔵の描写は4分の1にすぎません。

世界最大の軍艦を建造することとなった三菱重工業長崎造船所でとられた徹底した機密保持の措置は、造船所の関係者のみならず長崎市の一般市民にも重圧となってのしかかり、さらに読者にもその重苦しさが行間から迫ってくるのですが、全体の真ん中ほどに現れる進水式の場面に限っては、それまでの淡々と事実を積み上げる文体を離れて著者のペン先に何かが乗り移ったような熱気がこもり、苦しかった歳月を経てやっと艦を船台から海に送り出した造船所の人々の嗚咽の波につられて自分も胸と目頭を熱くしたものです。

熱いものが、胸の底から噴き上げてきた。船体は、音もなく動いて行く。そして、同時に舷側に固着された大きな鎖が、船台の上を曳かれはじめた。荒々しい鎖の音が、速度を増すとともに、すさまじい轟きとなって船台をおおった。鎖と船台のコンクリートの間で、はげしい火花が起った。雷鳴に似た音が体をつつみ、土埃が竜巻のように逆巻いた。渡辺は、自分の咽喉元に、灼熱した鉄塊が突上げてくるのを意識した。

「バンザイ」

不意に喘ぐようなかすれた声がした。それにつられて、作業員たちは、両手をあげて唱和しはじめた。号泣に近い声だった。

熱いものが、頰にあふれた。巨大な城がすべって行く。それは、一つの生き物だった。尾部が海面に突っ込むと、はげしい水飛沫が上った。その音が鎖の音と交叉して、作業員たちの声をかき消した。滑り出て行く船体の重量に、固定台の上に塗られた獣脂が加熱して、猛烈な白煙をあげている。それを予期して予め配置されていた数本のホースから、水が放たれ注がれている。

しかし、このように多くの人が心血を注ぎ、しかも莫大な建造費をかけて建造された武蔵は、その設計思想上の目標とされていた艦隊決戦の機会を得ることもなく、クライマックスとなるレイテ沖海戦でシブヤン海に沈むことになります。ここで、敵制空権下にある洋上で米軍機の波状攻撃を受け艦隊から単身取り残されてなすすべもなく満身創痍となっていく武蔵の姿が、対空戦闘の中で次々に斃れていく乗員たちの凄惨な様子と重ね合わせて残酷なまでに冷静に記述されるのですが、武蔵沈没後に他の乗員たちと共に海上を漂流したのち駆逐艦に救助された加藤副長が、沈む武蔵と運命を共にした猪口艦長から託された遺書を読んで涙する姿を描いた後に、生き残った乗員たちのその後の運命を何の感傷も交えずにこう記してこの小説は終わります。

生存者の半ばを占める六百二十名の乗組員は、内地送還も許されず現地軍の要請にもとづいて、その地に残された。一隊百四十六名は、マニラ防衛部隊及び南西方面艦隊司令部に配属され、翌年二月三日マニラ北方より戦車群を先頭に進出した米軍と激戦を展開、百十七名が戦死又は行方不明。また油井国衛中尉以下の乗組員は、マニラ湾口防衛部隊に編入され、鈴木新栄少尉のカラバオ地区隊三十五名は二十三名が戦死、油井中尉、新津清十兵曹長の率いるコレヒドール地区隊三十五名は、「最後の一兵まで戦う」という通信を最後に玉砕、この地区での生存者は、衛生兵長猪俣浩一名だけであった。さらに浅井春三少尉の率いる軍艦島地区隊三十六名、酒主貞信兵曹長以下三十五名のガバリオ地区隊は、それぞれ、自決又は戦死によって全員玉砕。

またマニラ地区のクラーク飛行場作業員として使役に使われた者三百二十名は、武器を所持していないため突撃隊に編入させられ、棒つき円錐弾、ふとん爆弾等の俄かづくりの爆薬を手に敵戦車の下に飛びこんで玉砕。この地区での生存者は、佐藤益吉水兵長一名だけであった。

このように、あたかも巨大な鉄の生き物のような武蔵がその誕生前から沈没後に至るまでそこに関わった人々の運命を支配する様子を描き、戦争というものの計り知れないほどの虚しさを読者の心に印象付けて終わる『戦艦武蔵』を著すにあたり、吉村昭は三菱重工業の関係者や旧海軍の関係者(建造・乗務)を中心に膨大なインタビューと資料収集を行い、記録文学と呼ばれるにふさわしいほどの綿密な準備をしています。その準備の様子自体を克明に記録し、明かしているのがこの『戦艦武蔵ノート』で、今風に言えば『戦艦武蔵』のメイキング本です。そこには、著者が武蔵を題材とすることになったきっかけから、小説化は難しい(特定の主人公を設定することが困難であるため)と考えつつも続けた取材の様子、新潮社からのアプローチにより本格的な執筆に取り掛かってからも憑かれたように取材を重ねていく著者の姿などが、折々に感じる鬱屈や困惑の率直な表明と共に著者本人の肉声としてビビッドに綴られています。

この取材の過程そのものが起伏に満ちていて興味深いのですが、本書においてより重要なのは著者の執筆動機が記されている部分かもしれません。終戦時に18歳で参戦体験を持たずむしろ戦争を嬉々と見物していた記憶しかない吉村昭は、敗戦後20年の時の経過の中で所謂「進歩的文化人」によってなされる戦争批判・軍部批判に対し反発を覚え、自分なりに戦争を描かなければならないという気持ちを抱くようになります。その頃知り合った友人の一人で、自分が集めていた武蔵の資料を吉村昭に託して『戦艦武蔵』執筆のきっかけを作った人物がメーデーの様子を報じる新聞記事を見ながら吉村昭に語った次の言葉は、私にとってはとりわけ象徴的でした。

いろいろ調べてみたんだが、この日本で実際に和平運動をおこなっていたのは、わずかな人数だったんだ。むろんそれだけではなかったろうけど。おれが運動に加わっていたとき、憲兵や警官と同じくらい恐れていたのは、実は隣り近所にいる平凡な市民だった。それなのに戦争が終わったとたん、数十万人もの人間が出てきて今更のように戦争反対永久平和をとなえて気勢をあげるなんて、そんな馬鹿げたことがあるかい。人間なんて信用できないものだなと、おれはつくづく思ったのさ。

また、新潮社からアプローチがあったときの、吉村昭自身の逡巡と決意とが書かれている次の部分も大事です。

終戦後二十年間、戦争は、民主主義という言葉の中でゆがめられ、戦争の実際の姿から人々は視線をそらせつづけている。それに対するもどかしさが憤りに近いものになって、私は鬱屈とした二十年間をすごしてきた。平和をねがうならば、戦争の悲惨さ、むなしさを直視しなければならないはずなのだ。

(中略)

「武蔵」という巨艦は、軍部の強請と同時に大衆のエネルギーから生まれたものであり、また乗組員も、エネルギーのすべてを吐き出した。そのエネルギーによって支えられた「武蔵」が、戦闘らしきものもおこなわず一、〇〇〇名以上の人命とともに沈没してしまったことは、いかにも戦争のむなしさ、人間のむなしさを象徴してはいないだろうか。

『戦艦武蔵ノート』によれば、締切間際に書き上がった『戦艦武蔵』には後日談として造船所の主要人物が海軍の大和・武蔵設計主任から「あれ、沈んだよ」と言われて呆然とする場面があり、さらに長崎への原子爆弾の投下が結尾として置かれていたそうですが、吉村昭は原稿を新潮社に提出する前に全体を読み返して、思い切りよくこれらのエピローグを切り捨てています。確かにこの地区での生存者は、佐藤益吉水兵長一名だけであったで終えたことで戦争のむなしさ、人間のむなしさが端的に提示されており、本書のラストにふさわしい締めくくりになっていますが、その「幻のラスト」がもし残っていたら、読んでみたいものです。

単行本として出版された『戦艦武蔵』はベストセラーになったのですが、送られてくる読者からの手紙を通じて、あらかじめ懸念されていたように四十代以上の軍隊生活経験者から一種の郷愁に近い感慨で読まれていることを知り著者は暗澹とするものの、逆に自分と同世代以下の読者からは戦争のはかなさむなしさを身にしみて感じたという感想がもたらされたことに安堵したことを明かした後、吉村昭はさらに二つのエピソードを紹介しています。

その一つは、著者の取材に協力してくれた建造関係・乗組関係双方の存命者を一堂に集めた謝恩会で、明るく賑やかな会合の様子は読んでいても楽しいもの。特に三菱重工業の営業担当だった方が「あれ(武蔵建造)はもうかりましたなあ」と語って笑いをとっていましたが、実は武蔵建造自体ではかつかつの利益しか出ておらず、発注者である海軍に艦を引き渡した後に残された資材が儲けになったのだそうです。

もう一つのエピソードは暗いもので、テレビ局のルポルタージュ制作に協力するために長崎を再訪問した際に、かつて武蔵を雨戸の隙間から覗き見た漁師を再び訪ねたものの今だにそのことが公になることにひどく怯えていたこと、そして武蔵建造中に図面を故意に焼却してしまった少年製図工(当時)のその後の不幸な消息を知ることとなったというもの。20年前に沈没した武蔵が、その後も武蔵と接点があった人々の人生に暗い影を落とし続けていることに慄然としながら著者が東京に戻るところで、本書は終わります。

なお、武蔵がシブヤン海に沈んだのは1944年10月24日(よって今年は沈没後80年目)ですが、その艦体は2015年3月2日にアメリカの調査チームによってシブヤン海の水深1000mの地点で発見されました。吉村昭は2006年に79歳で亡くなっていますが、あと10年長生きして海底の武蔵の映像に対するコメントを残してくれていれば、と残念に思います

また、なぜ父のさほど豊かとは言えない蔵書の中に『戦艦武蔵』があったのかと言えば、それは父の仕事に関係がありそうです。父は生涯を通じて海運会社に勤めていて、船に乗っているときは元来の専門である機関畑の仕事をしており、また陸上勤務期間中は発注者側の立場から監督として造船所に赴くことが多かったようです。そうした関係で家には船の設計図の青写真が山ほどあって小さい子供だった私や弟の落書き帳になっていましたし、船の進水式を見学させてもらったこともあれば、父が機関長として乗務している商船を港に訪ねたこともあります。その船は外航船だけに桟橋からは見上げるほど大きく、船内の父の執務室も自宅の居間以上に大きなものであったことは驚きでしたが、おそらく武蔵の大きさはその比ではなかったでしょう。『戦艦武蔵ノート』の中には造船に関して門外漢である吉村昭が三菱重工業長崎造船所を初めて訪ねた折に初歩的な質問を繰り返して関係者を呆れさせる場面がありますが、私も父の存命中に『戦艦武蔵』をネタにした質問の一つや二つもしてみれば、かえって父を喜ばせただろうに……と、これもまた残念です。