道遊

佐渡金山と周辺施設を巡る

5月17日に山仲間いず女史とその友達・トモエさんと共に佐渡島に渡り、18日に旅の主目的である金北山の登山を終えた翌日は、帰りのジェットフォイルが出航する14時35分までの半日を使っての島内観光。いず女史とトモエさんは滝巡りのガイドツアーに向かい、私は一人で佐渡金山見学に向かうことにしています。なにせ佐渡に来て金山に行かないのは、奈良に行って大仏を見ないようなものですから(ちなみに2022年の初佐渡のときは能舞台巡りをしました)。

山行の終点である白雲台へ迎えに来てくれたタクシーの運転手さんは、宿までの道すがらにちょっとした観光案内もしてくれて、大佐渡スカイラインを相川へと下る途中で上の方から「道遊の割戸」(詳しくは後述)が見えるポイントに車を停めてくれたり、「道遊の割戸」の通常とは反対側(山側)の荒れた山肌の様子を教えてくれたり、京町通りの中を通ってくれたりしました。おかげで相川近郊の産業遺跡の位置関係がよく理解でき、翌日の私の見学のよい予習になりました。運転手さん、ありがとう!

この日泊まった宿は相川市街から西に少し離れた春日崎近くにある「いさりびの宿 道遊」です。投宿したらただちに温泉風呂に入り、さっぱりしたところでまずはビールで山行の成功を祝して乾杯。そして夕食には三人とも佐渡のお酒の利き酒セット(天領盃・真稜・北雪・真野鶴・金鶴)をつけて[1]、さまざまな魚料理を心ゆくまで堪能しました。幸福なり……。

2025/05/19

「いさりびの宿 道遊」はせっかくの海沿いの宿なのですが、昨夕は飲んで食べてに夢中で日没を見逃し、今朝はぐっすり寝ていて夜明けも見逃したので、ひと足先に滝巡りに向かういず女史とトモエさんを見送ってから、宿の前の道路を渡って日本海の広がりをしばし見渡しました。

快晴ではあるものの強風の影響がうねりとして残っていて波がやや高い様子でしたが、真っ青な空の下の水平線を眺めるのも楽しいものです。

史跡 佐渡金山

「史跡 佐渡金山」は宿から歩くと1時間ほどかかりますが、宿のご主人が別組のお客ともども車で佐渡金山まで送ってくださって楽ができました。ありがとうございました。

まず初めに、佐渡金山の歴史についてごく簡単にまとめると次のとおりです。

  • 平安時代から佐渡で金が採られていたことが記録されており、その舞台となったのは真野地区の西三川砂金山だと考えられている。さらに16世紀に鶴子銀山や新穂銀山の銀鉱が見つかり、当初は露頭掘りで銀が採られていたが、石見国から来た山師によって坑道掘りが取り入れられて採掘量が増加し、このことによる繁栄が相川の金銀鉱脈発見のきっかけとなった。
  • 鶴子銀山の山師三人が新しい鉱脈を求めて相川の地に入り、1601年に金銀山を発見した。1603年に佐渡が天領とされると佐渡奉行所が置かれて幕府による金銀山経営が続けられ、幕末までの間に金はおよそ40トン、銀はおよそ1,800トンを産出した。
  • 明治以降も海外からの技術を導入しながら官営鉱山として金銀を生産し、明治29年(1896)に三菱合資会社に払い下げられた後も近代的な鉱業施設が集中的に建設されて1940年には佐渡金山史上最多の年間1,537kgの金を生産したが、次第に良質の鉱石が少なくなり、平成元年(1989)に休山した。

……といった予備知識を持った上で「史跡 佐渡金山」に入ります。坑道は一つですが中は二つに分かれており、右が江戸時代の様子を示す宗太夫坑、左が近代の坑道で「道遊の割戸」の下に通じている道遊坑です。二つの坑道の関係を示すと下の図の通りで、前者は全長400m・所要時間30分なのに対し後者は全長1.7km・所要時間40分とされています。

どちらから入っても差し支えなく、最後は同じところに出て再びこの入口からもう一つの坑道に入ることができる仕掛けになっていますが、受付のお姉さんのおすすめに従って最初に宗太夫坑に入りました。

宗太夫坑

するとびっくり、坑道本体に通じるスロープの左右に並べられた解説パネルの数々がものすごい情報量で、その一枚一枚をしっかり読んでいったらそれだけで10分や20分はかかってしまいそうです。こうしたアカデミックな姿勢は大好きなので作成者の意気に感じて丹念に目を通していきたいところですが、いず女史たちと正午に北沢浮遊選鉱場で落ち合うことにしているために時間にゆとりがありません。不本意ながらここは流し読み程度にして先を急ぐと、江戸時代の採掘作業の様子が解説と人形・装置によって再現される「江戸金山絵巻」のパートに行き着きました。

この手の人形ものの中には普通のマネキンを使っていて子供だましのようなものが見られることがありますが、この坑内の人形たちは衣装も顔立ちもリアルに仕立てられていて感心してしまいます。全部で12のパートはそれぞれ「水上輪の導入と樋引人足」「宗太夫間歩・山師の稼行」「山留普請」「穿子たちの出入り改め」「排水・通気・照明」「金穿大工の生活」「水替人足と無宿人」「探鉱坑道」「採掘作業」「間切改め」「捨石も選られ製錬所へ」「間歩(採掘抗)開きの祝い」と題して坑道内のさまざまな場面を示しており、そこから山師を頂点とする採掘従事者の階層構造や落盤防止の仕組み、水上輪すいしょうりんによる排水、唐箕による通気、金穿大工による採掘(鑽たがねが2日で1本ダメになる!)と不正防止のための出入りチェックといった一連の仕組みがわかるように工夫されていました。

金穿大工や山留大工は技術者として待遇もよく、また水上輪を操作する樋引人足や手繰りで水をかい出す水替人足、雑役夫である穿子にもそれなりに賃金が支払われていたそうですが、それでも人形たちは「ああ、早く外に出て酒が飲みてえ」「なじみの女にも会いてえなぁ」と文句を言っていました。その気持ち、わかります。わかりますが、見学の子供たちの前でそういう大人のぼやきはまずいのでは?

坑道を抜けると橋を渡って佐渡金山展示資料館に導かれます。坑道内は採鉱(鉱石を掘り出す)の様子を視覚化していましたが、こちらではさらに選鉱(鉱石を選び分ける)・製錬(鉱石から金銀をとりだす)・精錬(金の純度を上げる)・鋳造(小判に仕立てる)までの一連の工程が解説とジオラマによって説明され、佐渡奉行所を中心とする相川地区一帯がこうした金銀山経営に最適化されていた様子が示されていました。ここでも微に入り細を穿った解説がすばらしく、「資料館」の域を超えて「博物館」と言ってもいいくらいです。

それにしても驚嘆するのは金銀鉱石から純金を抽出するためのおそろしく複雑な工程です。大雑把に言えば、まず鉱石を砕いて石臼ですりつぶし水槽に入れてゆすって軽い砂と重い金銀とを分け、これをいったん鉛と共に炭火で溶かして合金にし不純物を取り除いた後に灰を敷き詰めた鉄鍋で熱して鉛を取り除き、さらに金と銀を分けるために硫黄や塩を加えて熱するというもので、こうした工程を経ることで鉱物としての金は金属としての金に変わるわけです。いったい誰がどうやってこうした精錬法を発見したのか不思議ですが、考えてみると古代エジプトでは5000年も前から金を得ていたわけですし、新大陸のインカ帝国でも独自の黄金文化を持っていたのですから、不思議に思う必要はないのかもしれません。

こうした精錬法に加えて、海面より低いところまで掘り進んだ坑道に湧き出る水を効率よく排出するため、佐渡奉行・荻原重秀によって元禄年間に開削された南沢疏水坑道(地中排水坑)に見られる測量・掘削技術も特筆すべきものです。上の測量絵図は南沢疏水坑道の完成(1696年)の前年に作成されたもので、坑道と共に鉱脈の位置や方向も描かれ、当時すでに鉱脈がどのように存在しているかが正確に把握されていたことを示しているそうです。このように、金山経営は各種の高度な技術の集積の上に成り立っていたことがこの絵図を通してもわかります。

この白い花弁のようなものは佐渡の八つの金銀鉱脈の模型です。金銀鉱脈というのはマグマによって熱せられた水に溶け込んだ金銀が岩盤の割れ目に入り込んだ後に冷えて、マグマの主成分であるケイ素が固まった石英脈に取り込まれたものなので、この花弁のようなものはかつて(佐渡では中新生前期〜中期=2300万〜1300万年前)の岩盤の割れ目を示しており、その大きさは東西3,000m、南北600m、深さ800mに及びます。これらは地中にあるのにどうやって見つけるのかというと、山師たちは海岸を歩いて砂金を探し、そこから付近の川や沢を上流へと辿って露出した鉱石を見出し、そこで試掘を繰り返して鉱脈発見に至るのだそうです。後で見る「道遊の割戸」は、この金銀鉱脈が地表に出ていたところを掘り下げていった跡です。

資料館の奥にはみんな大好き大判小判が並べられ、さらに重さ12.5kgの金塊(直近の金価格で計算すると2億円超)に触ることができるようになっていました。この金塊のずっしりとした重さを味わったところで資料館での学習は終わり、いったん外に出て再び坑口に向かいます。今度は近代の採掘遺跡である道遊坑に入ります。

道遊坑

宗太夫坑(宗太夫間歩)が山師・宗太夫の名前に由来しているように、こちらの「道遊」も山師の名前(たぶん苗字ではなく下の名)です。宿のご主人がここへ送ってくださる道中で教えてくださったところによれば、道遊氏の子孫の方が宿の名前に興味を持ってわざわざ泊まりに来たこともあるのだそう。

宗太夫坑のテーマパークのような展示の賑やかさとは裏腹に、こちらはどこまでもそっけなく坑道が続きますが、それでもそこに展示されていた解説から江戸時代の手掘りが西洋の近代的な採掘法を取り入れた様子がわかりました。その採掘法とは、

  1. 立坑(地中エレベーター)を掘る。
  2. 深さ30m毎に水平坑道を掘る。
  3. 鉱脈に達したら、鉱石を採掘する。
  4. 立坑を利用して外に運び出す。

というもので、アリの巣のように広がった坑道の総延長は約400km(佐渡〜東京間の距離に匹敵)に達したそうです。また、坑道内にはトロッコ(坑車)が置かれていたり酒類熟成所があったりしてそこはかとなく現役感を漂わせていました。

やがて到着したのは「道遊の割戸」直下採掘跡で、1989年の休山時の最後の採掘現場の一つです。発破で落とした鉱石をここからトロッコに乗せて運び出したということです。順路はここでUターンし、入口からの道とは別の坑道に入って外界へ出ることになります。

外に出てすぐの場所にあるのは、明治18年に佐渡にやってきた鉱山技術者・大島高任の名に由来する高任立坑と高任坑。そして昭和10年に建設され休山時まで使用されていた機械工場には各種機械が展示されていたほか、戦後の報道映像が流されていて往時の鉱山の賑やかさを偲ばせてくれました。

一通り機械工場を見学したら「道遊の割戸」を間近に見られる場所へ向かいます。気持ちの良い木立の中の道をわずかに登り、大山祇神を祀る高任神社の前を通ってさらに奥へと続く階段を登ると、その先に「道遊の割戸」が大きな口を開けていました。

これは壮観!幅10m・長さ120m・深さ100mの金鉱脈を掘り進める間に山が割れたようになったもので、上部は江戸時代、中腹と地下部は明治以降の採掘になるものです。なお、ここにあった解説には「金山発見の物語」として次の記述がありました。

鶴子銀山の山師3人(三浦次兵衛、渡辺儀兵衛、渡辺弥次右衛門)が、山を越えて海岸伝いに鮎川(現在の濁川)の河口を遡り、苦労の末ついに次々と鉱脈を発見。次兵衛は六十枚間歩、儀兵衛は道遊間歩、弥次右衛門は割間歩を稼ぐことになった。1601年7月15日のことであった。

あれれ、道遊さんの名前はここには出てきませんが、いったいどうなっているのでしょう?

来た道を戻って機械工場の前を通り抜け、おすすめ絶景ポイントとされる高任公園で振り返ると、見事に割れた山の形を見ることができました。なるほど、確かにこれは絶景です。そして上の写真で言うと右の見切れた先の林の中に、佐渡金山で最初の鉱山町である「上相川」の遺跡があるそうです。「道遊の割戸」に近いそこは、最盛期には「上相川千軒」と呼ばれるほど栄えたそうです。

こちらは高任公園の一角から見下ろせる間ノ山地区の眺めで、対岸の斜面に残る間ノ山搗鉱場(鉱石の製錬を行うところ)の姿を見ることができました。

トロッコ道を歩き、高任坑を通り抜けると鉱山資料館1階の売店に達して、ここでお土産を買ったら道遊坑周回コースは終了です。

二つの坑道と鉱山資料館の見学でおよそ1時間40分を要しましたが、これでも展示されていた解説の多くを流し読みしたり飛ばしたりしているので、じっくりすべてを見て回ったらさらに1時間は必要だったでしょうし、それだけの価値のある豊かな知見を与えてくれる史跡でした。トモエさんが懇意にしているガイドさんによる滝巡りツアーも魅力的でしたが、やはりこちらに来たのは正解でした。

ほぼ歩きづめだったので出口近くの売店前で小休止することにし、黄金の錦鯉を見ながら金箔ソフトクリームをいただいてしばしまったり。次なる訪問先は佐渡奉行所跡です。

昨日、白雲台からタクシーに乗って下った車道(大佐渡スカイライン)を徒歩で下ると、道の左手にはかつてこの道沿いに連なる高任地区・間ノ山地区・北沢地区を結んでいたトロッコの軌道とこれを通すトンネルの遺構を見ることができました。豊かな緑に囲まれた石積みの直線的な遺構は、なんとも言えない風情が感じられます。

道を途中で離れて左に入り、万照寺の前を通り抜けるとそこにあるのが「無宿人の墓」。水替人足として江戸・大阪・長崎の天領地から送り込まれた1800人余のうち坑内作業中に死んだ28人の生国・戒名・名前・年齢を刻んだもので、嘉永6年(1853)に建立されたものです。28人だけというのはいかにも少ないような気がしますが、それはさておき、このあたりから濁川沿いに海に向かって緩やかに下る尾根の上にかつてさまざまな名前の町が連なって佐渡奉行所へと通じていて、最盛期には相川の人口は5万人にまで達したとされています。ちなみに、2025年4月1日現在の佐渡市(佐渡島全域)の人口は45,680人です。

この近隣には昭和初期に第一から第四までの鉱山労働者の寄宿舎(相愛寮)が建てられ、道すがらではそのうち第三と第一(後に建て替えられて拘置所)の跡を見ることができましたが、いずれも戦時中に半島からの労働者が居住していたことが解説に記されており、近代史の影の部分を思わせました。

ところで第三と第一の間になぜか休憩場所があり、なんで?と思いながら見回すと、そこもまた「道遊の割戸」の展望スポットになっていました。ここから見る「道遊の割戸」は本当に岩山がぱっくり割れたような姿をしていて、一種異様な景観です。

やがて、道の左右に古い街並みが続くようになりました。「大工町」といった職分に基づく町名もあれば「新五郎町」といった人名を冠した町名もあってそれぞれの由来を知りたくなってきますが、そのまま海に向かって下り続けると、6月上旬に開催される「宵之舞」に向けた雪洞が立ち並ぶ京町通り(上京町・中京町・下京町)に入りました。

京町通りは鉱山盛期の繁華街で、近年まで上方風の連子窓・蔀戸を持つ家が連なっていたそう。江戸初期には豪商・山田吉左衛門(京都出身)がここに住み、鉛座・小判座の請負人を本業としつつ両替(金融)や廻船(商社)も営んでいたということです。そしてこの通りを抜けて時鐘と鐘楼がある角を右に折れると、すぐそこが佐渡奉行所跡です。

佐渡奉行所跡

まず佐渡奉行所の成立までの歴史を概観すると、次のとおりです。

  • 佐渡は長く、鎌倉時代に守護代としてこの地に入った本間氏が支配し、その後、順徳天皇(承久の乱)、日蓮、世阿弥といったビッグネームの流刑地にもなっていた。
  • 1542年に銀を産出するようになった鶴子銀山に着目した上杉景勝が1589年に佐渡を平定し、同地に代官を置いて鉱山開発を大規模化した。
  • 関ヶ原の戦いを経た1601年に相川で金銀山が開発されると共に佐渡が徳川領となり、大久保長安が1603年に徳川氏の代官に任ぜられると陣屋が鶴子から相川の上町台地の先端に移って、それまで寒村だった相川に計画的な集落の造成と街道・港湾の整備が進められるようになった。
  • 大久保長安没後に代官の失政もあって金の生産は低迷していたが、1618年に赴任した鎮目惟明が各種施策を講じ、これにより佐渡金山は復興する。正式に「佐渡奉行」と名乗るようになるのはこの鎮目惟明からである。

こうした経緯からわかるように、佐渡の奉行所は他の地域の奉行所とは異なって金銀山経営という機能を持ち、時代による変遷はあるものの、住居部分(奉行の御陣屋)・行政部分(御役所)・直営工場(勝場等)の三要素で構成されていました。その建物は焼失と再建を繰り返しながら明治維新を迎え、その後も役所や学校として活用されていたのですが、昭和17年の火災によって失われ、現在の建物は安政6年(1859)再建の奉行所のうち御役所部分を平成13年に復原したものです。

予習はこれくらいにして奉行所の敷地内に入り、まず御役所に上がってみると、効率的に見て回れる順路が設定されていました。

もっとも、大広間はさすがに貫禄の広さを誇っているものの、たくさんあるその他の部屋はどれも4畳〜6畳の比較的こじんまりとした和室が並ぶばかりで、いささか面白みに欠けています。

そうした中でも奉行所と言えばこれでしょう!とわくわくしたのはお白州で、まずは奉行目線で白州を見下ろし、次に被告人目線で白州から見上げてみましたが、裁きを下す者と下される者との間にはさほど高さの差がなくて、あまり威圧感を感じない構造になっていたのが意外でした。

また、平成7年に敷地内から発掘された鉛板(金銀の製錬に用いたもの)や「佐渡奉行赴任絵図(岡松伊予守旅行図)」も展示されていて、ことに後者を見ると、桜が花盛りの情景の次には深い残雪が描かれていたり渡海の波が高かったりして、江戸から佐渡までの長い道中の様子がよくわかりました。ただし佐渡奉行は必ずしも現地に赴任していたわけではなく、正徳2年(1712)以後の奉行二人制では一人が佐渡に赴任し一人は江戸に在勤したそうです。

御役所を一通り見て回ったのち、その海側の一段低いところにある寄勝場よせせりばにも入りました。これは採掘した鉱石を細かく砕いて金や銀を選鉱する工場で、佐渡奉行・石谷清昌がそれまで町のあちこちに散在していた買石(二次選鉱と製錬を請け負う業者)の勝場を集約し、作業効率の向上と不正防止を実現するために宝暦9年(1759)に奉行所の敷地内に設けたものです。

ここで金山経営の仕組みをおさらいすると、おおまかに言えば奉行所が山や施設を貸し工程管理を行い、山師は採掘を請け負い、買石がそれ以後の選鉱と製錬を担当してでき上がった金銀塊を奉行所が買い取るという仕組みが基本で、その中でも山師が経費一切をもち10〜15%程度の鉱石を奉行所に納めたら残りは山師のものとする「請山」と採掘経費を奉行所がもち40〜60%の鉱石を奉行所がとる「直山」があり、時代が下るにつれ採掘は直山化が進み選鉱から鋳造まで奉行所内で行われるようになっていったそうです。

寄勝場の中には『金銀山絵巻』に描かれた絵に即して選鉱の工程が再現されていましたが、それよりも目を引いたのは「佐渡金銀山ものがたり」と題した連続パネルです。そこには海側から相川の地を俯瞰した図をもとに「金銀山の発見」「奉行所と町の広がり」「大火と大洪水」「金銀山の再興と南沢疏水道」「町の中心は浜辺へ」「『佐渡鉱山』の近代化」と相川の佐渡金山の歴史が一望できるようになっているほか、奉行所自体の歴史についても「奉行所の変遷」「天保期(1830〜)の奉行所」「発掘調査の遺構と遺物」というパネルが掲げられていました。ことに「天保期(1830〜)の奉行所」を見るとこの奉行所が官庁というより工場と呼ぶにふさわしい構造を持っていたことがわかります。

しかし、一連の展示を見て感じたのは、金銀の明るい輝きとは裏腹の奉行たちの苦心惨憺です。最初に石見銀山の技術や経営手法を導入して佐渡金山の基礎を築いた大久保長安はともかく、その後の荻原重秀による南沢疏水坑道開削にせよ石谷清昌による勝場の集積化にせよ良鉱を掘り尽くしたためのテコ入れ策で、そこには金銀の増産を求める幕府の強いプレッシャーがあったでしょうし、投資原資を確保するために年貢を増やして農民の怒りを買ったり思わぬ天災に見舞われることもあったりしたわけですから、彼らの心労は並大抵ではなかったのではないかと推察します。

そんなことを思いながら1時間ほどでここでの見学を終えたのですが、佐渡金山展示資料館でも感じたように、この佐渡奉行所跡もストイックに佐渡金山を見る者に伝えようとする姿勢が好ましく、じっくり時間をかけてパネルと展示物の一つ一つを読み込んでいきたかったと思わせてくれるものでした。

北沢浮遊選鉱場跡

佐渡奉行所跡を出てすぐの谷間に広がっているのが、近代の鉱山施設である北沢浮遊選鉱場の跡です。この浮遊選鉱というのは、細かく砕かれた鉱物を界面活性剤などの化学薬品とともに水槽に投入して攪拌すると親水性の岩石は沈み疎水性の金属は泡と共に浮上するという原理を活かした選鉱技術で、これによって江戸時代のズリなどの低品位の鉱石からでも金を回収することができ、佐渡金山では1940年に史上最多の年間1,537kgの金を生産することに貢献したということです。

ちなみに世界遺産「佐渡島の金山」は「16世紀後半から19世紀半ばまでの伝統的手工業による金銀鉱山遺跡群」を対象としているので、実は最初の方で見た「道遊坑」もそこには含まれていませんし、近年の再建である佐渡奉行所の建物も、この北沢浮遊選鉱場跡も対象外です。しかしこの北沢浮遊選鉱場跡は、その独特の景観がスタジオ・ジブリの『天空の城ラピュタ』を連想させる映えスポットになっていて大人気。よってここを、滝ツアーに行っているいず女史・トモエさんとの再合流場所にしたというわけです。

確かに!この蔓性の草に覆われたコンクリートの躯体の廃墟感は間違いなく『ラピュタ』の世界観に合致しています。あまりにラピュタすぎて現役の頃の姿を想像するのが難しいのですが、実は道遊坑を出たところにある機械工場の中に在りし日の浮遊選鉱場の写真があって、iPhoneの画面に映し出したその写真と目の前の光景とを見比べてみると、そこはかとなくかつての威容を思い浮かべることができました。

ここでもう一つ目を引くのは、直径50メートルの巨大な「シックナー」です。これは高任公園から見えていた間ノ山搗鉱場から排出された泥状の金銀を含む鉱石を処理する泥鉱濃縮装置で、ここで水分と分離された金銀鉱石が対岸の浮遊選鉱場に送られて選鉱工程に回されていたそうです。

浮遊選鉱場の前でぐるり360度回ってみるとこんな感じ。浮遊選鉱場の右隣には火力発電所の遺構があり、佐渡市相川技能伝承展示館と「北沢Terrace」の右に鋳造工場跡。さらに回ってシックナーですが、往時は他にもこの広場にさまざまな工場や倉庫があり、そしてここから大間港まで架空索道(ロープウェイ)が通じていました。

ちょうどよい頃合いに一連の見学を終えることができ、いず女史とトモエさんの到着を待つ間「北沢Terrace」で一息入れました。ここではメニューの中にあった「佐渡島黒豚金山カレーセット」のユニークな形状がとても気になったのですが、彼女たちとは合流後に両津で寿司を食する約束なのでじっと我慢……。

こうしてめでたく佐渡島での旅程をすべて終え、金北山に見送られつつ島を離れることができました。

今回の旅の主目的は大佐渡山地での花見縦走だったのですが、おまけのつもりだった最終日の佐渡金山見学がすこぶる充実していて、帰りのジェットフォイルを早めの便にしていたことを後悔したほど。まだ佐渡金山を訪れたことがない人にはぜひ一度ご覧なさいとお勧めしますし、自分が佐渡を三たび訪れる機会があったらまた佐渡金山に足を運んでしまうかもしれません。それくらい、楽しくてためになる見学機会でした。

脚注

  1. ^いず女史もトモエさんも、お酒はイケるクチである。
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