屑界
アニメーション映画『JUNK WORLD』
2025/06/16,18
ヒューマアントラストシネマ渋谷で、ストップモーション・アニメーション映画『JUNK WORLD』(堀貴秀監督)を見てきました。本作は2021年に公開された『JUNK HEAD』の続編ですが、内容的には前日譚(1042年前)になっており、今後制作される『JUNK END』と合わせて三部作となる予定です。
人類は地下開発の労働力として人工生命体のマリガンを創造した。自我に目覚めたマリガンは自らのクローンを増やして人類に反乱。第3次停戦協定から280年後の世界。人類は地上に留まり、地球規模に広がった地下世界をマリガンが支配していた。
という基本設定の上で本作が展開されるのですが、単線の時系列ではなく、タイムリープによりつながる四つの世界線が四幕構成で提示される面白い作りとなっています。
▼タイトルをクリックすると、各幕のあらましが表示されます。
「一幕」:基本ストーリーの提示
地下世界の首都だったカープバールから検知された異常なエネルギー(クーパ波)の原因を探るために人間とマリガンの合同調査隊が組織されたものの、その出発前に狂信的なギュラ教徒たちの攻撃を受け、生き残ったのは人間側の女性隊長トリスと彼女の守護ロボット・ロビン、マリガン側の隊長でマリガンオリジナルの再生体であるダンテ、それに人間・マリガン間の中立拠点(中の島)に赴任していたモース大使とその部下テリアの5人だけになってしまう。ギュラ教徒からの度重なる攻撃と何者かによる援護を受けながらカープバールを目指して進み続けた一行は、途中でモース大使とテリアを失い、さらに廃墟と化したカープバールでの巨大マリガンとの戦闘でボディを損傷したロビンが自己修復により子ロビンの姿になりながらも、ついにクーパ波の発生源である異次元とのゲートに辿り着く。彼らはここでダンテを迎えにきたと称する別次元からの使者ペルマンたちと邂逅するが、ダンテを引き止めようとしたトリスがペルマンに倒されそうになったとき、先にゲートに引きずり込まれていたロビンが戦闘スーツをまとった姿でゲートの中から出現してトリスを救う。
「二幕」:一幕の別視点からの再現
一幕の終わり近くで使者に弾き飛ばされ、そのはずみでゲートに引きずり込まれたロビンが転移した先は、荒涼とした砂漠の世界。壊れた身体を岩にもたせかけていたロビンは、その姿に好奇心をそそられて近づいてきた原始的なリピーア族を長い時間をかけて手なずけ、自ら神[1]として君臨し彼らに文明を授ける。ロビンの目的はあくまでトリスを守ることだったが、ロビンがこの世界に転移してから530年後に最初にできたゲートは小さく、やむなくロビンを慕う族長の娘バステトを先に一幕の世界へ送り出す。ここから物語はバステトの視線で一幕のストーリーをなぞることになり、調査隊一行を援護していた謎の存在がバステトだったことが明かされるが、バステトはギュラ教の教祖と刺し違えて命を落としてしまう。さらに120年を経てついにロビンも自ら次元転移装置で出発し、一幕の世界に現れてトリスの危地を救うが、ロビンが時間に手を加えたことでこの世界は消滅する。
「三幕」:前二幕とは異なる世界線
今度は前二幕とは異なりギュラ教徒による中の島への襲撃によってダンテもトリスもあえなく犠牲になる世界。カープバールを目指すことになったのはモース大使、テリア、そしてトリス守護というコマンドを解かれたロビンの3人だが、ギュラ教徒の目的は女性であるトリスの肉体を手に入れることだったのでもはや彼らの道行が阻まれることはなく、一行は無事に(ただしロビンは子ロビンの姿になって)カープバールのゲートに到着する。今回ゲートから現れたのはテリアの子孫である邪悪なぺぺラッツとモース大使の子孫である乗り物動物で、言葉巧みにゲートの向こうの別次元に連れ込まれたテリアとモース大使は分解・転送されてしまい、取り残されていたロビンも膨張したゲートに飲み込まれる。
「最終幕」:ミッション成功
三幕の最後でゲートに飲み込まれたロビンが覚醒すると、そこは二幕の冒頭で現れた砂漠の世界。しかしすべての記憶を残しているロビンは、岩の前に座して静かにゲートが開く時を待ち、ついにギュラ教徒襲撃前の中の島に戻り着くことに成功する。彼の情報によりギュラ教徒の襲撃は未然に阻止され、科学者たちを含む調査隊全員がカープバールのゲートの前にやってきたとき、今度は異界ロビンが現れてこの世界のロビンをいざなう。ロビンはトリスに別れを告げてゲートの向こうへ旅立ち、ここでゲートが消滅すると、ダンテもまたゲートの作用で見たビジョンに従って新たな未来を作るために自害して生命の樹に変異する。こうして任務を終えたトリスと子ロビンは、この世界の未来に思いを馳せながらカープバールを後にする。
ここで一応の大団円ということになり、エンドロールと共にメイキング映像が映し出されますが、実はこれで終わったわけではありません[2]。
「エピローグ」:『JUNK HEAD』へのブリッジ
トリスと子ロビンを乗せた輸送機は、ギュラ教徒の残党によって撃ち落とされる。それから1042年[3]の時が流れ、再生装置の中に横たわるトリスを見守る子ロビンは遂に活動限界を迎えて谷底へと転落してしまう。そのボディはスクラップとして運ばれる途中で打ち捨てられるが、やがてその前に現れて子ロビンの頭部を拾い上げたのは、あの3バカだった。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本作にはなんと150ページという分厚さの中に膨大な情報を詰め込んだパンフレットが用意されており、背景となる世界観、キャラクター、幕ごとのストーリーが解説されていて、これらがテンポよく進むストーリーの理解を十分に助けてくれます。今「テンポよく」と書きましたが、一幕を見ているときにはあちこちに違和感を感じるポイント[4]があって、これは演出上の瑕疵なのでは?と思いながら見ていたら、バステトの視点が加わる二幕で同じ場面が再現されてみると見事に違和感が解消されていって、作り込みの緻密さが次々に判明する快感を味わえました。
また、上映開始直前に座席でこのパンフレットをぱらぱらと眺めたときには、そこで紹介されているキャラクターの数のあまりの多さに果たしてついていけるだろうかと心配になったのですが、これらの中にはほんのチョイ役もいればカープバールでトリスたちに瞬殺されるクリーチャーたちもおり、それらの数の多さがストーリーの理解を妨げることはありませんでした。裏を返せばそうしたチョイ役たちのためにも手を抜かずに造形の努力を投入した制作者の熱量に圧倒される思いがしますが、この膨大な熱量に基づく制作プロセスを支えたのは、前作よりは多少増えたスタッフに加え3Dプリンターや3DCGなどの新技術の導入による制作効率の向上だったようです。
前作から4年でこれだけのクオリティの映画を創り上げるためにはこれらは必須の道具立てだっただろうと思いますが、それでもストップモーション・アニメとしての手作り感はほぼ維持されていましたし、相変わらず『JUNK』シリーズの特徴であるグロテスクな造形感覚は健在……というよりさらに磨きがかかっている感じで、個々のクリーチャーもさることながら、肉塊まみれになった姿を見せる廃墟カープバールの禍々しさにはひときわ強い衝撃を受けました。さらにアニメーションとしての動きの面でも特筆すべき場面がいくつもありましたが、たとえば次のようなシーンではその映像表現の見事さに目を見張りました。
- 煙を上げながら沈みゆく中の島の迫力。
- ダンテに首から毒を吸い出されながら恍惚とするトリスの吐息の湯気(ムーディーな音楽つき)。
- トリムティの首を切り落としながらその体の下を滑り抜けて態勢を立て直すトリスの鮮やかな身のこなし。エンドロールのメイキング映像の中にもこの場面のコマ撮りの様子が含まれていました。
- 虹色の光の粒子になって消えていく登場人物たち。これはCGかと思いきや、落下するラメパウダーの映像を合成したものだそう[5]。
なお、二幕では一幕の伏線回収が鑑賞のポイントになりましたが、それらとは異質の世界線を辿る三幕でもあちこちに小ネタが散りばめられています。気がついた点のいくつかを列記すると次のようです。
- 三幕の最初に出てくるモース大使とテリアの豪華な部屋の場面。早く異動して中央政府の仕事に就きたいとぼやくモース大使が見やった棚の写真立ての一つに納まっている写真の中で、モース大使が着ているピンクのシャツの胸にはローマ字で「YAMIKEN」(本作の制作会社の社名)とプリントされていました。この部屋のその他のインテリアも古代ギリシャ風の壺、エッフェル塔や京都タワーらしき模型、日本伝統のこけしにマトリョーシカなど、妙に我々の現世と通じているのが笑えます。
- ギュラ教徒の襲撃の際、背後からアオタスに刺されたダンテが思わず漏らした言葉が「アオタス、お前もか……」。もしやブルータスBrutusの「ブルーBru」を「青Blue」に置き換えたのがアオタスの名前の由来?
- この幕に登場したトリムティはロビンの剣によって顔に傷をつけられただけで退散していましたが、さてはと思って4年前に買った『JUNK HEAD』のプログラムを引っ張り出してみたところ、やはりそこに出てくるトリムティの顔にも傷がついており、同一個体であることがわかりました。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
本作のストーリーに話を戻すと、ところどころに間の悪さを感じる場面があった[6]上に、一幕・三幕・最終幕のそれぞれ最後にゲートの向こうから登場する異次元からの使者たちが自分の祖先であるダンテ、テリアとモース大使、ロビンをゲートの向こうへ招聘する意図と意味とがどうしても腑に落ちなかったので、手放しで「面白かった!」と喜ぶことはできないのですが、『JUNK HEAD』においてバートンがマリガンの生態系の鍵となる生命の樹の探索という使命を担っていたように、本作ではロビンの「トリスを守る」という一貫した動機が物語を推進している点には心を動かされました。しかも、これが二幕までは「揺るぎないコマンド」によるものであったのに対し、三幕でトリスからコマンドを解かれた後にもその行動原理が変わることはなく、最終幕で「これは私の自由意志なのだ」と高らかに述べるロビンの独白は、本作随一の聞きどころです。
しかし、その目的を達成するために二幕においてロビンがわざとリピーア族の中に貧富や差別を持ち込み文明の進歩を加速させた点は意味深ですし、その世界線の過程においてバステトが自爆死を余儀なくされたのもロビンの使命感がもたらした悲劇です。したがって、最終幕において超越者となったロビンが岩の前に胡坐して静かにゲートが開く日の到来を待つ選択を行い、その前を通ったこの文明化されていない世界でのバステトが何かを感じながらロビンを見上げる(けれどもロビンは彼女に声を掛けようとはしない)情感に満ちた場面が、本作において自分が最も好きな場面となりました[7]。
ところで本作には字幕版(ゴニョゴニョ版)と吹替版(日本語版)の2種類があり、前者は前作と同じくゴニョゴニョ語で語られ日本語字幕がつくものであるのに対し、後者は日本語の台詞で語られていて、アニメートに際しては後者に即したリップシンクが施されているそうです。私はやはりゴニョゴニョ語の方がこの世界観にマッチするだろうと思って字幕版を見たのですが、聞こえてくるゴニョゴニョ語の中に「ガッテンショー」「ドギャンスット」「シュワルツェネッガー」「ショーペンハウアー」といった聞き慣れた単語が出てきてそちらに気をとられてしまう上に、語り口が朝鮮語的な平板さだったこともあって気持ちが乗り切れません。しからばと次に吹替版を見たところ、こちらはそうしたストレスがなく[8]素直に登場人物の一人一人に感情移入することができたので、私としてはこちらが好みでした。もちろん両方を見比べるのが理想ですが、もしどちらか一つを選ばなければならないとするなら、私は吹替版の方を推奨したいと考えます。
ともあれ、エピローグでロビンのボディが3バカに拾われたことで本作と『JUNK HEAD』が一本の線でつながっていることがわかったのですが、プログラムの終わりの方にはこれから制作される最終作『JUNK END』の構想がすでに記されており、そこでは『JUNK HEAD』から55年後のカープバールにおいてバートンたちとロビン、さらにトリスも合流することになる旨が明示されていました。数年以内に実現するであろうこの『JUNK END』の公開を、今から楽しみに待ちたいと思います。
![]() |
![]() |
脚注
- ^神殿内の円柱などは古代ギリシャ風なのに、なぜかロビンは光背を背にして蓮華座に結跏趺坐していて、仏教の「輪廻」の概念との関連を想起させます。
- ^なので、エンドロールが始まったからと言って席を立ってはいけません。
- ^『JUNK WORLD』はAG2343年、『JUNK HEAD』はAG3385年という設定なので、両者の間には1042年の時が流れています。つまり、ロビンのボディが活動限界を迎えて谷底へと転落したのはまさに『JUNK HEAD』の物語が始まろうとしている年だということになります。なお、パンフレットの中には「1024年」という記述が複数箇所に見られますが、映画の中では「1042年」と明示していました。
- ^たとえば最初の爆発が起きたときにすでに床に職員の死体が転がっていたり、脱出艇が飛び立とうとして何かに引っかかっていたのにすぐそれが外れたり、追跡するギュラ教徒機が突然爆発したり。さらに、後から思えば会議の冒頭でアオタスがロビンの同席にクレームをつけたのも、ロボットの存在が襲撃の邪魔になると考えたからに違いありません。こうした「違和感」が別視点の導入によって解消していく感覚は、かつて見た映画『カメラを止めるな!』に近いかもしれません。
- ^これには先日見た『宇宙大怪獣ドゴラ』の石炭が渦を巻いて巻き上げられる特撮を連想しました。
- ^たとえば二幕でバステトが名付け親になるエピソード、あるいは三幕冒頭の食事中のモース大使とテリアの会話の一部。
- ^ちなみに前作『JUNK HEAD』で一番好きな場面は、バートンがこれから地下へ旅立とうとするときに、二度と目にすることはないであろう青空を見上げる物語冒頭のシーンです。
- ^特に吹替版のバステトのアニメ声はすごい……と思ってプログラムの配役表を見たら、担当していたのはプロの声優ではなくアニメーターの三宅敦子さんで、三宅さんはつっけんどんな口調に終始するトリスを含む10人以上の声をあてていました。もちろん堀貴秀監督も同様に、子ロビンとダンテ、モース大使を含む一人多役をこなしています。また、吹替版と字幕版とでは役柄の多くで声優が異なっていました。