学砂
ブラザーズ・クエイ『ベンヤメンタ学院』『砂時計サナトリウム』
2025/07/23
シアター・イメージフォーラム(渋谷)で、クエイ兄弟による『ベンヤメンタ学院』(1995年)と『砂時計サナトリウム』(2024年)の2作を鑑賞。前者はその名を前々から知っていたものの今まで見る機会がなかったもの、後者は彼らが19年ぶりに公開した新作ということで話題になった作品です。
上映館であるシアター・イメージフォーラムを訪れたのはこれが初めてですが、いかにもなインディーズ感を漂わせる独特の作りをもち、一度入ったら二度と出てこられなくなりそうな堅牢なその構え自体がクエイ兄弟の作品を上映するのにふさわしいと思わせる映画館でした。
ベンヤメンタ学院
死の匂いを漂わせる荒れ果てた建物にあるベンヤメンタ学院。そこではひたすら服従することを学ぶため、一つのレッスンを際限なく繰り返す独自のカリキュラムが組まれている。学院に入学した「小公子」ヤーコブはレッスンに励みながら、いつのまにか学院の秘密に引き寄せられ、学院長ベンヤメンタ氏の妹で唯一の教師である「眠れる美女」リーサの奥深い部屋の秘密へと導かれてゆく。そこでヤーコブは驚くべき体験をすることになる……
- 監督:ブラザーズ・クエイ
- 脚本:ブラザーズ・クエイ+アラン・バス
- 原作:ローベルト・ヴァルザー「ヤーコブ・フォン・グンテン」
- 撮影:ニック・ノウランド
- 音楽:ヤシュ・ヤンコウスキ
- 出演:アリス・クーリジ(リーサ) / マーク・ライランス(ヤーコブ) / ゴットフリード・ジョン(ヨハネス) / ダニエル・スミス(クラウス)
主人公のヤーコブが執事養成学校に入校するところから始まり、模範生クラウスを始めとする生徒たちとの奇怪な授業の合間に学院長ヨハネスのヤーコブに対する執着とその妹で唯一の教師であるリーサの精神の崩壊が描かれて、リーサの死、ヨハネスとヤーコプの学院からの逃避、そして最後に一人学院に残ったクラウスの姿を深い喪失感のうちに描いて終わる不可思議な物語。
映像はうっすら霞んだソフトな画質で統一されたモノクロームで、最初と最後を除けばほぼすべての場面が学院内に限られ、暗い屋内に控えめに置かれた光源によって物事が映し出されることが多く、そのことがここではすべてがまどろみの中。それでも思いがけないことは起こるもの
というナレーションの示すとおり、この学院の存在を非現実的な、夢とも現ともつかないものにしていて、あたかも『スティル・ナハト』シリーズをそのまま実写化したようなムードが漂います。しかも被写体に妙に近づいた構図が多い上に、入学審査でのヨハネスによる徹底した身体検査、「水」や「鹿」といったモチーフへの執着、感情らしきものを失った生徒たちによる標語と所作の反復が示す執拗さ、そしてこれらの異様さにもかかわらず美しいリーサの姿がヤーコプばかりか映画の観客を早々に抑圧して、出口のない回廊のようなこの映画の世界から永遠に抜け出せなくなる感覚を覚えます。
学院にはヨハネスとリーサとの近親相姦(的)関係、リーサと7人の生徒たちとの白雪姫と小人たちとの関係という安定した構図(まどろみの中
)ができあがっていたのに、そこにいわば「異物」としてヤーコプが入学したところからその安定が崩れ始めて、ヨハネスは半ば同性愛的関心をもってヤーコプに接するうちに自身が学院の虜であることを告白し、それまで生の歓喜
を知ることがなかったと言うリーサもまたヤーコプとの間に特殊な関係(ただしそれが現実だったのかヤーコプのリーサに対する思慕が見せた夢だったのかは判然としない)を結んだ後にその姿が窓からの光に包まれたとき、彼女の死が決定的なものとなります。そこには学院に抑圧される存在だったはずのヤーコプが逆に学院崩壊の引き金になっているという逆転の構図が生まれているのですが、ヤーコプの何がそのようにさせているのかはまったく説明されません。そもそもヤーコプがこの学院に入学した経緯も動機も描かれませんし、学院を去ったヤーコプがその後いかなる運命を辿ることになるのかもわからず、さまざまな疑問符を残したままに映画は幕を閉じてしまいます。
こんな具合に一度見ただけでは理解することが困難な映画ではあるものの、やはりクエイ兄弟の作品ならではの独特の映像美とダークなムードがあって一瞬たりとも画面から目を離すことができず、自分にとっては「難解=退屈では必ずしもない」ということを再確認した映画になりました。上の映像(予告編)にもクエイ兄弟の特徴がふんだんに織り込まれており、たとえば闇と光の使い方、クローズアップと焦点の合わせ方、痙攣するような対象の振動などはその典型です。ただしこうしたアニメーションのパートはこの映画ではごくわずかにすぎず、ほぼすべての時間は実写映画として構成されていて、したがってこの厄介な作品を俳優たちはどのように理解して演技に結びつけたのかと不思議になってくるのですが、たとえばマーク・ライランスは本作が制作された1995年から10年間シェイクスピア・グローブ座の芸術監督を勤めた名舞台俳優であり、切迫した表情を浮かべる美貌が魅力的だったアリス・クーリジも『炎のランナー』ほかで名の通った映画女優であることを知ると、納得できるようでもありどこか落胆を覚えるようでもある不思議な感じがしました。
砂時計サナトリウム
青年ヨゼフは、忘れられた支線を走る幽霊のような列車にゆられ、死の床にある父を見舞おうと遠く離れたガリシア地方にあるサナトリウムを訪ねる。到着したサナトリウムは、既に活気を失い、怪しげな医師ゴッタルダによって仕切られていた。彼はヨゼフにこう告げる。「あなたの国から見ればお父様は亡くなったが、ここではまだ死んでいません。ここでは、一定の間隔で常に時間が遅れているのです。その間隔の長さは定義できません」。やがてヨゼフは、そのサナトリウムが現実と夢の狭間に漂う世界であることに気づき、そこでは時間も出来事も、目に見える形をとって存在することができないと知る。
- 監督:ブラザーズ・クエイ
- 脚本:ブラザーズ・クエイ
- 原作:ブルーノ・シュルツ「砂時計サナトリウム」
- 撮影:ブラザーズ・クエイ(アニメーション) / バルトシュ・ビェニェク(実写)
- 音楽:ティモシー・ネルソン / アルフレート・シュニトケ
- 出演:タデウシュ・ヤニシェフスキ(競売人 / ナレーション) / ヴィオレッタ・コパンスカ(競売人の助手 / 女中 / アデラII) / アンドジェイ・クワク(ヨゼフ / 煙突掃除人)
最初に書きますが、この作品は難しい……。
クエイ兄弟の代表作とされる「ストリート・オブ・クロコダイル」も、本作と同じくブルーノ・シュルツの短編を原作としており、その元ネタは第一短編集『肉桂色の店』に収められた「大鰐通り」ですが、これはシュルツの故郷であり終焉の地であるポーランド東南部ガリツィア地方のドロホビチ(ユダヤ人である彼は路上でゲシュタポに射殺されました)の退廃的な一角を膨大な熱量で禍々しく記述した同作の中から「古地図」「仕立屋」といったモチーフを抜き出してクエイ兄弟がグロテスクな造形センスを自由に羽ばたかせていて、原作の知識を抜きにしてもその映像美を鑑賞することが可能でした。
ところが「砂時計サナトリウム」の方は、上記のあらすじのように時間も出来事も、目に見える形をとって存在することができない
ために唐突な飛躍や反復が随所に現れてまっとうに絵面を追うことすら困難。鑑賞者はスクリーン上の思わぬ展開に突き放されているうちに、自分の立ち位置を見失ってしまいそうになります。こうなってくると、もとより本作は原作の忠実な再現ではないにしても、原作の知識が本作の鑑賞をある程度は手助けしてくれるので、まずブルーノ・シュルツの小説群の中での主人公ヨゼフと心を病んだ父(そのせいか短編集のあちこちでヘンなものに変身する)との関係性を下敷きとして知っておき、さらに「砂時計サナトリウム」(少なくとも同名の短編、できればやはり同名の第二短編集)を読んだ上で映画館に足を運ぶことを推奨されます。
原作短編のプロットをおおまかに整理しておくと、次の通りです。
- 長いローカル線の旅路の末にサナトリウムに到着するヨゼフ。ここでは時間が遅らせられることによって父は生きていることを医師から告げられる。ベッドに横たわる父との再会。
- サナトリウムの外の街中を探訪し、父が開いた店を訪れて、快活に商売に励む父と自分宛に届いた屈折望遠鏡を受け取るヨゼフ。
- 一日の大半が眠りに費やされるこの街の描写。レストランでは父が次々に料理を注文して満悦であり、給仕の青年に色目さえ使っている。ところがサナトリウムに戻ると、ベッドの中の父は二日間も寝たきりだという。これはどういうことか?時間が急速に分裂崩壊しているのだ。
- サナトリウムでの暮らしに耐え難いものを覚え、父をここへ送り込んだことを後悔し始めるヨゼフ。時間に手出しするのはやめてくれ。自分はどんな罠に落ちたのか?
- 戦争のニュース、凶暴な犬……よく見ればそれは人間。ついにサナトリウムを抜け出したヨゼフは鉄道駅へと走る。そのとき以来、彼は鉄道に乗り続け、客車から客車へとさまよっている。
これに対しクエイ兄弟の「砂時計サナトリウム」は、この一部始終を外の世界(モノクロームの実写)から覗き見る競売人とその助手という登場人物を創造し、サナトリウムでの物語は彼らが屈折ピラミッド形の装置につけられた前所有者の網膜を通して見る7つのイメージであるという建付けになっています。『ストリート・オブ・クロコダイル』の冒頭に登場した光学機器を覗き込む老人と共通するこの「窃視」というモチーフを「前章」とした上で本作は7つの章に分割され、それぞれに副題が添えられているのですが、率直に言ってこの副題は(少なくとも初見では)理解の助けになってくれません。クエイ兄弟の作品の常道として常に暗く、そして荒涼と埃っぽい画面の中で、まどろんでは鞄を落としそうになるヨゼフ、六臂のゴッタルダ医師、宙を舞うシルクハット、鳥籠の中の鳥、異形の獣人(?)の姿が前述のとおり飛躍や反復を伴って絡み合い、さらに彼らを眺める外世界の二人と実写のヨゼフや女中、さらに意味ありげな強い視線と素足を見せる女性(短編「マネキン人形」のアデラ)が脈絡を理解できないままに繰り返し登場するうちに、自分もまた時間に手出しするのはやめてくれ
と異議申立てをしたくなってしまいます。
幸いなことに、本作のプログラムにはクエイ兄弟自身によるメッセージが掲載されています。映画を見終えた後でこの文章を読んだときには、先ほどまで目の前に展開していたイメージの奔流の中にかろうじてある程度の意味を見出すことができたような気がしました。
サナトリウムにある迷宮のような廊下では、物や出来事が独自の力を持ち、自由にさまよいます。不気味な“半現実”が支配する中で、主人公ヨゼフは記憶・幻想・幻視が絡み合う不可解な世界にのみ込まれていきます。彼は父と再会し、夢の中でその姿を見失い、いくつもの「父」を発見し、そして永遠に失うことになります。そしてヨゼフ自身の存在さえも多重化し、ひとりは死に、もうひとりは永遠にサナトリウムの廊下をさまよい、最後の一人は、かつて自らが乗ってきた列車に再び乗り込むのです。
しかし本当のところは、これはクエイ兄弟による初学者向けの「サービス」に過ぎないのであって、この作品の真価を理解するには、鑑賞者の側がもっと読書体験と映像体験とを重ねておかなければならないのに違いありません。そもそも、クエイ兄弟の作品を鑑賞しようとするなら、広く東欧幻想文学の系譜に対する教養を身につけておくことは当然の前提なのかもしれません。

