一水
sudoさんの「甲斐駒への道」
2025/09/20
この日は上野の東京都美術館で開催されている「第86回 一水会展」を見てきました。一水会は昭和11年(1936)に創立された公募美術団体で、その名前は清朝初期の技法書『芥子園画伝』にある次の言葉に由来しています。
唯先埋笔成塚,研鉄如泥,十日一水,五日一石,而后嘉陵山水。
まず使い古した筆で塚ができるほどに、あるいは鉄の硯がすり減って泥となるほどに研鑽を重ね、十日をかけて一水を描き、五日をかけて一石を描いて、ようやくにして嘉陵江の山水を描くことができる。
かくして西洋絵画の伝統である写実の本道を守り
技術を重んじ高雅なる芸術をめざす
ことを、この会の本分としているのだそうです。「十日一水 五日一石」、よい言葉を覚えました。
この日、東京都美術館では「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が開催されていて、そちらの方はたいへんな賑わいだったのですが、幸い(?)「一水会展」の方はがら空きで、一つ一つの絵をじっくり見ることができました……と言いたいところですが、何しろ出展作品数が500点ほどもあるため、どうしても駆け足にならざるを得ません。
会場に入るといきなり大作群が並んでいて圧倒されます。このあたりは主に受賞作が紹介されているようです。
どうやら最高位は文部科学大臣賞ということのよう(違っていたら申し訳ありません)で、その受賞作はこちらの《再生の里山》(土田佳代子氏)です。タイトルからも窺えるように朱鷺の姿を幻想的な構図の中に描いた作品で、さすがにこの絵の前では足が止まってしまいました。
その手前にあった一水会賞受賞作《冴え返る山間の春》(門谷京子氏)の緻密な表現にも息を飲みました。こうした光景は山登りをしていれば目にする機会が少なくないのですが、じっくり観察して画面の中に定着させていく膨大な作業の結果としてのこの絵を見ると、何か別次元の情景を見ているような気持ちになってきます。
引き続き展示されている作品を眺めていくと、風景画・人物画・静物画などなど、さまざまな種類の絵が並んでいてその題材の多彩さに驚きました。また「北斎へのオマージュかな?」「これはスーラっぽいな」「ドガを連想するな」「ダリを思い出す」などと、自分のこれまでの絵画体験を振り返りながら見ることができるのも楽しいものでした。
ところで、大半の絵は写生に基づく写実的な絵だと思えるものの、中には抽象的な表現を駆使した作品も見られて一水会の趣旨との整合が気になるところですが、実は展示の冒頭のところに「二十一世紀における選択」と題した一文が掲げられていて、そこで写実の定義を大胆に拡大し、たとえ、抽象傾向の作品であっても、真摯な姿勢と表現の真実性がみとめられるものは、積極的に評価する
と宣言されていました。なるほど。
そういう目線で見ると、一水会の中核をなしておられた田中義昭氏の《追想》の大胆な表現も素直に受け止めることができます。一見したところでは前景をいっぱいに占めるイメージの奔流に目を奪われますが、眺めているうちにそれらが遠景の黄金のパゴダのような建物やさらに彼方の山の端を染める光と緊密に結びついていることがわかって、そこにどのような心象風景が広がっているのかと一段深いところから鑑賞することができるようになってきました。それにしても、これが88歳で亡くなった氏の遺作だというのですから驚きです。
そんな具合に賛嘆の声を心の中であげながら広い会場内の作品群を見て回りましたが、やはり個人的には風景画が主たる興味の対象になってきます。動きのある海景をどこまでも透き通った筆致で描いた作品もあれば、見る者に樹林の中の木道を静かに歩ませるような趣のある作品もあり、そしてもちろん自分が見慣れた山々を遠くから眺めた作品も数多く展示されていました。たとえばそれらは北アルプスの槍ヶ岳であったり穂高岳であったり不帰ノ嶮であったりして、そういう絵を見ると自分の山行を思い出しながら「この絵はだいたいあのあたりから描いた構図だな」と想像するのが面白かったのですが、そういう謎解きをしながらも実は探している絵がありました。
あったあった、あれがこの展覧会に足を運ぶ動機となったお目当ての作品です。
南アルプスの甲斐駒ヶ岳を描いた作品は今回2点が展示されていましたが、これはそのうちの一つである「甲斐駒への道」(須藤義夫氏)です。実は私が登山から登攀へと山行のスタイルを変えていこうとしていた2000年頃、氏が「sudo」さん名義で開設しているサイトである「やっぱり山が好き!」に掲載された山行記録は私と私の周辺の山仲間たちにとってはバイブルのような存在で、それ以来四半世紀にわたり掲示板を通じた交流を細く長く続けさせていただいていました。私の最初の槍ヶ岳北鎌尾根(2001年)はsudoさんの記録を参照することなしには実現しませんでしたし、近年の金峰山表参道(2022年)と同・八幡尾根(2024年)もsudoさんの記録にインスパイアされたものです。そんな具合に山の先達と言っていいsudoさんが絵を描くことも趣味としていることは前々から知っていたのですが、今回の「一水会展」にsudoさんの作品が入選したことを氏のサイトで知り、これは足を運ばなければと思い立ったのでした。
ちなみに下の写真は私が2020年に甲斐駒ヶ岳に登ったとき(ただしこのときは山頂は踏んでいません)に麓から甲斐駒ヶ岳を見上げて撮ったものですが、sudoさんの絵は甲斐駒ヶ岳の特徴である摩利支天の形が明瞭で、登山者にはよりなじみのある姿をしています。そしてこの絶妙の構図の中に、甲斐駒ヶ岳の雄々しさとその麓に住まう人々の暮らしとそれらを眺める画家自身の穏やかな眼差しとが一体となって落ち着いた色合いの中に塗り込められているようで、sudoさんの山行記録の端々から窺える氏の個性にたがわず、とても端正な作品だなと心を動かされました。しかも、下の写真はスマホを構えれば一瞬で撮れてしまいますが、sudoさんの作品は(ほかの作品もそうですが)何日もかけて形を決め色を重ねていく営為の果てにできあがっているものですから、重みがまったく異なります。
この「第86回 一水会展」は東京では10月5日まで。その後、大阪、名古屋、金沢と巡回します。登山愛好家であろうとなかろうと、会場に足を運べば必ず気に入った作品に出会えることと思います。