別子

別子銅山の遺構を巡る

2025/08/22

18年ぶりの四国への旅のメインイベントである沢登りは、一昨日昨日に銅山川上流の二つの沢をそれぞれワンデイで遡行していずれも楽しかったのですが、わざわざ東京から愛媛までやってきてそれで終わったのではもったいない。そこで、2本目の沢登りが終わった後にパートナー・トモコ女史に新居浜市内へ送ってもらった私は一人格安の宿に宿泊し、3日目に別子銅山の関連施設を見学することにしました。5月の佐渡金山に続いての、鉱山遺構の学習というわけです。

別子銅山記念館

朝、ホテルをチェックアウトして新居浜駅まで歩き、コインロッカーにリュックサックを預けてデイパック一つの身軽な姿になった私が最初に向かったのは、駅からタクシーで1,000円余りの位置にある別子銅山記念館です。すなわち、ここで別子銅山について包括的な知識を入手した上で、実際の遺構であるマイントピア別子へ向かおうというのが私の作戦です。

記念館は新居浜市街の平野部と山岳部の境目にある大山積神社の境内にあって、本を正せばここ自体が銅山で働いていた従業員のための社宅や厚生施設などが集積した地であったそうです。

境内に入って正面奥に神社の社殿があり、右に記念館が半地下のかたちでモダンな姿を見せていますが、まずは奥に進んで神様に昨日までの山行の無事に対する御礼を申し上げました。ついで境内に置かれた「かご電車」や「別子1号機関車」を見て回ったものの、正直に言うとこのときはこれらが何であるかピンときていなかったのですが、これらの正体(?)は後ほどマイントピア別子に行って判明することになります。

記念館は住友グループが設立・運営主体で入館無料、受付で記帳すれば自由に中を見て回れますが、館内は写真撮影禁止です。記念館の構成は、まずロビーに大鉑おおばくと言って定められた寸法に刻み上げられた鉱石(300kg)を飾り藁で結束して古式に則り毎年元旦に奉献していたものの最後(昭和48年)のものが置かれ、そこから緩やかに三段に構成された館内に「泉屋」「歴史」「地質・鉱床」「生活・風俗」「技術」の各コーナーが配置されて各種展示品を眺めることができるようになっていました。これらを丹念に見て回ったら優に2時間はかかりそうですが、上述のようにここでは別子銅山のあらましをざっくりと頭に入れることが目標なので、一通りの展示品を短時間で流し見て行くことにしました。ここではそのいちいちを記すことはしませんが、「別子銅山記念館案内」と題したリーフレットに手際よく別子銅山の歴史がまとめられていたので、その一部を以下に引用しておきます。

別子銅山の歴史は、元禄3年(1690)人跡未踏の銅山峰(銅山越 海抜1,294m)の南側で露頭が発見され、翌4年(1691)から住友(当時の屋号「泉屋」)によって採掘が開始されたのが始まりです。

海抜約1,200mの地帯から北東方向に斜めに深く長く帯状に貫入した鉱床は、世界にも稀に見る大鉱床であり、開坑以来、江戸・明治・大正・昭和の4時代283年にわたる長い間、上部から下部に向かって営々と掘り続けられました。

地下資源の開発に伴う幾多の困難や、水・火による大変災、また時世の変遷による社会経済の変動等によって、幾度か経営の危機にも遭遇しましたが、都度これを克服して、終始住友によって稼行が続けられてきました。

しかし、昭和48年(1973)採掘場所が海面下約1,000mの地中深部に達するに及んで、地圧の増大による「山はね現象(坑道崩壊)」や地熱の急激な上昇、また品位の低下も顕著となり、安全・作業環境・採算面からこれ以上の採掘は断念せざるを得ないものと判断され、遂にその長い歴史を閉じることになりました。

この間に別子銅山は、本山鉱床、筏津・余慶・積善鉱床からの総出鉱量約3,000万トン、銅量にして約65万トンを産出(産銅量)して、今日みられる住友連系諸事業の礎となって、その発展に大きな使命を果し、また四国随一の工業都市新居浜市の生成発展に大きく貢献しました。

別子銅山は足尾銅山・日立鉱山と共に日本三大銅山と呼ばれることがある日本有数の銅山ですが、ここでは別子銅山=住友=新居浜市という等号関係をまず頭に入れることが大事で、次に別子銅山の開発拠点が時代と共に変遷していること、具体的にはまず稜線上の鞍部である銅山峰の南側の「旧別子」から始まり、順次「東平とうなる」「端出場はでば」へと拠点が北に移ったことを押さえておくことが必要です。展示品の中で特に面白いと思ったのは、旧別子の様子を紹介するジオラマと四つの鉱床に掘られた坑道を可視化した別子銅山坑道模型で、特に後者を見ると、最大の本山鉱床が脈幅2.5m・走向長(幅)最大1600m・深さ2500mという巨大な板状になって45度〜70度の急角度で地中深く沈み込んでいる様子が一目瞭然でした。

なお、明治以前には鉱石中の銅含有量(品位)が平均10%にも達していたのに、年を経るに従って深く掘り下げなければならず、品位も下がっていって採算問題を生じたという経緯は佐渡金山を思い出させるものでしたが、別子銅山の場合は住友によって鉱業から派生した機械・化学・金属などの重工業が今日の新居浜市の発展につながっているところが、佐渡金山と決定的に異なるところです。

マイントピア別子 端出場ゾーン

別子銅山記念館の近くのバス停から路線バスに乗って、国領川沿いの道を山奥へと分け入り、着いたところが道の駅を兼ねるマイントピア別子。別子銅山の最後の採鉱本部が置かれていた端出場地区に設けられたテーマパークです。

一昨日も山行終了後の入浴のために立ち寄ったこの施設ですが、観光客モードになってあらためて訪れてみると、ありし日の別子銅山の姿を示す写真や鉱物標本が豊富に掲示されていてためになります。特に興味深かったのは上の写真の左側に映っている「四国の金属鉱山分布と地層」と題した図で、これを見ると新居浜市の南の平野部と山地との境目付近を東西に走る中央構造線の南(三波川変成帯)に徳島から佐田岬まで帯状に鉱山が分布していることが一目瞭然です。

また、旧別子・東平・端出場の各エリアが豊富な写真と模式図で説明されていたり、銅山峰周辺の徒歩ルートが「登山案内図」として示されていたりして、この一角だけでも見飽きることがありません。

さらに三度の飯よりジオラマが好きな私の琴線に触れる「別子銅山全景」ジオラマがすてき。別子銅山記念館にも同趣旨のジオラマがありましたが、これらを見ていると、いつの日にか旧別子周辺の山歩きをしてみたいという気持ちになってきました。

さて、東平ゾーンへのガイドツアーを予約している13時まで時間にゆとりがあるので、トロッコ列車に乗って観光坑道を訪ねてみることにしました。この車両は先頭に蒸気機関車、最後部に電気機関車をそれぞれ模した動力車があり、その間にはかご車、客車が連なっていて、いずれも鉱山鉄道で使用されていたものの縮小版ですが、本物は先ほど大山積神社の境内で見たものたちです。なるほど、あれはこれだったのか(←国語力……)。ともあれ、3分ほどの列車の旅を経て到着した観光坑道(333m)はもともと採掘用の坑道ではなく火薬庫跡を改造したもので、その中に江戸時代と近代との採掘の様子が再現されています。

ひんやりした坑道内に入ると、本館でも見た四国の地質構造図や別子銅山の略史、そして鉱山概要図が展示され、ここで鉱山開発のあらましを把握してから奥に進むつくりになっています。上の図のピンクの部分が鉱床で、四つある鉱床のうち最大のものが本山鉱床。上述の通り、巨大な一枚岩のかたちをした鉱床が急角度で地中深く(海面下1000m)まで続き、その底に向かって坑道が掘り下げられていることがわかります。

こちらは江戸時代の採掘の様子を再現したもので、最初の鉱石を高く掲げ喜んでいるのが元禄3年に銅山峰で銅鉱石の露頭を見つけた「切上り長兵衛」。以下「負夫と掘子」「掘場(つぼ)」「湧水の引揚げ」「坑口と風呂場」「砕女小屋」「銅の製錬」「仲持ち」「粗銅改め」「山神社」と展示が続きます。

佐渡金山と比べるとテキスト情報が乏しく、特に銅の製錬方法は極端にあっさりしていて失礼ながらアカデミックな香りが薄いのですが、女性労働力の活用が進んでいたことはこれらの展示からも窺えました。後で見る東平地区にあった選鉱場(近代)の主役が女性であったように、江戸時代でも鉱石を砕いて選別する仕事は砕女かなめと呼ばれる女性たちの仕事。さらに驚きは仲持ちと呼ばれる運搬夫(婦)で、銅山から下界に粗銅や半製品を運び帰路には米や味噌などの生活物資を担いで上がるその重量は男性が45kg、女性が30kgだったそう。そうしたことを反映したのかどうか、風呂場を見るとさりげなく混浴でした。

アカデミックついでに、佐渡金山では採掘権の変遷(「請山」から「直山」へ)についても説明が詳細でしたが、この別子銅山は住友が採掘を一手に引き受け、そこから13%を税として納める「請山」方式であったらしいことが展示の解説から窺えました。

続いて近代に移り、まずこの巨大ジオラマに達します。これは別子銅山の明治から昭和にかけての様子をひとまとめにしたもので、三層になっているのは上から順に旧別子・東平・端出場を表します。てっぺんで右手を高く掲げている人物には一瞬ヒ○ラーを連想して焦りましたが、たぶん別子銅山近代化の祖とされる初代住友総理人・広瀬宰平氏なのでしょう。それにしてもこれは、もしや山自体が回転したりするのか?と期待しましたがさすがにそんな大仕掛けではなく、ジオラマのあちこちで人や牛やゴンドラが可愛らしく動くというものでした。

面白いアイデアだと思ったのは遊学パークAの「地下1000m体験エレベーター」で、階段を上がってエレベーターの中に入ると、ガクンと動いて確かにエレベーターが沈んでいる感覚があります。しかし「1000mはいかないにしても10mくらいは下がるのだろうか」などとと思いつつ窓の外の岩壁が下から上へ動いていく様子を見ているうちにやっと気づきましたが、実はエレベーターはまったく動いておらず壁の外の岩壁を模した絵だけが動いて乗客が沈んでいっているような錯覚を作っているのでした。そしてこのエレベーターを反対側のドアから出ると、そこは妖しい光に彩られた坑道風の迷路になっていて、鉱石や鉱山で使われた道具類が並んでいました。

遊学パークBにも同様のいささかチープなアトラクションがありましたが、この削岩機には素直に笑ってしまいました。もっとも、実際に坑内で削岩機を使った人たちは海面下1000mで摂氏50度にも達する過酷な環境の中で仕事をしていたわけですから笑いごとではなかったでしょうが……。

観光坑道の探訪を終えて再びトロッコ列車に乗って本館に戻り、昼食をとってから少し離れたところにある旧端出場水力発電所に足を伸ばしました。道すがらには泉寿亭と名付けられた京風数寄屋作りの迎賓館(玄関と客室の一部)や第四通洞の入口を見ることができます。この「通洞」というのは坑道とは異なり鉱石などを運搬するための水平トンネルで、第四通洞は大正4年(1915)の開通。長さはおよそ4.6km(大立坑から先の採鉱通洞と合わせると10km弱)あり、それまで鉱石は第三通洞を通じて東平に運ばれた上で索道によって端出場に下ろしてから下部鉄道に積み込んでいたのに対し、第四通洞ができてからは大立坑によって第四通洞に下ろし坑内鉄道で運ぶことができるようになり、合理化に寄与したということです。

明治45年(1912)に建設された旧端出場水力発電所は、屋根こそトタン葺きですが側壁は風格のある煉瓦造り。壁がところどころ黒くなっているのは、戦時中に爆撃目標にならないようにと塗られた跡だそうです。

館内には巨大な発電機が4台……ではなくて、3台は周波数変換器で右奥の1台だけが建設当時のままの発電機です。建設当時は周波数の規格が確立しておらず、ここでは30Hzで発電していたものの、西日本が60Hzに統一されるにしたがい不便を生じ、昭和40年代に他の発電所が稼働するに伴い発電機は順次取り外されて周波数変換器に置き換えられていったということです。

ここにもジオラマが!しかもこのジオラマが示していた事実はびっくり仰天で、この水力発電所は水源を目の前の国領川ではなく銅山峰の向こうの銅山川に求めていました。すなわち、銅山川上流に設けられた複数の取水口で取り入れた水はトンネルを通して北側の第三通洞出口付近に送られ、そこから暗渠と水路によって石ヶ山丈水槽に貯められた後、水圧鉄管によってこの発電所へ落としていたというわけです。ここに見られる明治人の発想の柔軟さと実行力には舌を巻いてしまいました。

マイントピア別子 東平ゾーン

興味深い展示を見て回っているうちにいつの間にか時間がたっており、最後は駆け足になって13時発のバスに間に合いました。このバスは路線バスではなくマイントピア別子が運用しているツアーバスで、ガイドさんが同乗して道すがらの見どころや東平ゾーンの案内をしてくれるというものです。

東平ゾーンに向かう道の途中、斜面に段々畑状の石垣が広がっている場所がありました。これはかつての社宅群の跡で、こうしたところが山中に何ヶ所か点在していたそうです。さらに進むと尾根を乗り越えて小学校跡の前を通り、下った先が東平ゾーンの中心地でした。

駐車場の近くにあった「むかしの東平」を見れば、最盛期には最盛期には鉱山社員とその家族を合わせて約5,000人(旧別子の最盛期は12,000人)が住んでいたという東平の広がりがよくわかります。もっとも、旧別子を中心に栄えた別子銅山の採鉱本部が東平に移されたのは大正5年(1916)、そしてさらに端出場に本部を移したのが昭和5年(1930年)ですから、東平地区が別子銅山の中心地であった期間は意外に短期間です。それにしても、なぜ「東平」と書いて「とうなる」と読むのかというと、昔の絵図を見るとここは「当鳴」という字が当てられていて、当には峠、鳴には平地という意味があるのだそうですが、ガイドさんの言によれば当が東に変わった理由は判然としないそうです。

まずは東平歴史資料館に入って、別子銅山の歴史のおさらい。ここのジオラマは山地だけでなく市街地までカバーしていてスケールが大きい。

東平には娯楽場もあり、芝居がかかっていたという話は興味深いものです。模型の娯楽場の屋外の幟には市川・片岡・坂東・中村といった歌舞伎役者っぽい名前が書かれていましたが、実在の役者の名前かどうかはわかりませんでした。

東平歴史資料館を出たら、坑内鉄道が通っていた短いトンネルの中に入りました。

このトンネルの中には、かつてここから第三通洞を通って別子山村(日浦)まで人を運んだかご電車や鉱石を運んだ三角鉱車、索道に吊り下げられていた索道バケットなどが一列に並べられており、往時を偲ぶことができるようになっています。実はこれらは、この後のマチュピチュ解説の伏線になっていました。

トンネルを出たところから左へ回り込むと、谷の彼方に新居浜市街が広がり、眼下には煉瓦造りの遺構を見下ろすことができました。これがいわゆる「東洋のマチュピチュ」の一部です。

これは先ほど見た三角鉱車を横転させて鉱石を落とす穴。この下にあったのは貯鉱庫と選鉱場です。

上部鉄道のあった場所を遠く眺めたり、いささか悲惨な姿になっている「ニュートンのりんご」を横目にしつつ、これから220段の階段に向かいます。

インクラインは電車ホームと索道基地との間をつなぐ斜長95m・仰角21度の電気巻上げ式運搬施設で、その跡が今は階段になっています。この階段の左側は鬱蒼とした森になっていますが、こちらの中にも石段がたくさん残っており、かつてはそこに娯楽場や住宅が建ち並んでいました。また、途中から派生するやや狭い道は仲持道で、明治13年(1880)に牛車道ができるまでの鉱石運搬の主役だった仲持ちさんたちが歩いたところです。

さあ、いよいよ「東洋のマチュピチュ」とご対面。目の前には先ほど上から見下ろした貯鉱庫と選鉱場の跡、そして索道基地の跡が聳え立っていますが、しかしこれは……。私は2006年に本物のマチュピチュを見に行っているのですが、そうした目で見ると、これをマチュピチュと比べるのはさすがに無理があるような気がします。

▲本家マチュピチュの姿。(2006/05/16撮影)

しかし、東平歴史資料館で見た「ありし日の東平」に描かれている構造物を思い出してみると、もしそれらが全部見えていたとしたら確かにマチュピチュと遜色ない光景が眼前に広がっていたかもしれません。そうなっていないのは住友が積極的に植林を行ったためなので、「東洋のマチュピチュ」が本家マチュピチュに遠く及ばないのは植林事業の成果であるとも言えそうです。

そもそも住友が植林に取り組んできた理由は、銅の製法に関わっています。別子銅山の銅鉱石は層状含銅硫化鉄鉱(キースラガー)と呼ばれ、深海底にできた熱水性の硫化物の堆積層であったものが変成作用を受けてできたものとされていて、その主成分は硫黄・鉄・銅。ここから銅を取り出すためにはまず鉱石を蒸し焼きにして硫黄を飛ばし、その上でさらに加熱して鉄と銅を分離するのですが、こうした加熱過程で生じるのが亜硫酸ガスで、これが森林や田畑に対し深刻な煙害をもたらすわけです。このため住友は製錬所の閉鎖や四阪島への移転などの対策を打つと共に、早くも明治31年(1898)には山林課(住友林業の前進)を設置して森林復旧にも努めています。なお、旧別子に集中していた別子銅山の施設が北側に移転するきっかけになったのは明治32年の大水害による製錬所の壊滅で、これも旧別子が裸山になり保水力がなくなっていたことに起因したものと考えられています。

閑話休題。目の前の煉瓦の壁の前に進むとそこにあったのは索道基地跡で、第三通洞が開通した後の明治38年(1905)にここから国領側下流(当初は黒石、後に短縮して端出場)へ鉱石を運搬する手段として設置されたものです。イメージとしてはスキー場のリフトのようなもので、上りと下りが並行してここでぐるりと回るのですが、その動力は?というガイドさんからの謎々にツアー参加者から電力とか水力とかいろいろ声が上がったものの、正解は「自重」でした。

駐車場に戻る階段を上がりながら、貯鉱庫と選鉱場の跡を見て回り、これで「東洋のマチュピチュ」の見学は終了です。佐渡金山の「ラピュタ」(北沢浮遊選鉱場跡)ほどのインパクトは感じませんでしたが、この地の歴史や別子銅山の拠点構成を思い返しながらあらためて眺めてみると東平の遺構群にも深い味わいがあり、旅程を1日伸ばして足を運んだ甲斐があったと思うことができました。かくして、この施設を作った人々、ここで働いた人々、そしてここが閉鎖されるときにここを去っていった人々に思いを馳せながら、端出場に戻るバスに乗って東平を離れました。

別子銅山の遺構は、今回訪れた3箇所だけでなく旧別子地区を含む各地に点在しているのですが、その概略をつかむ上で必要最低限の見学はできたのではないかと思います。その上での感想ですが、元禄年間から昭和に至るまで280年もの長きに及んだ別子銅山の歴史を整理された形で後世に伝えるための十分なマテリアルが、運営主体を異にする別子銅山記念館(住友グループ)とマイントピア別子(第三セクター)との合わせ技によってよく保存されており、充実した見学体験を享受できたと感じました。

ただし、やや気になったのは端出場での見せ方で、本来の坑道ではないところを「観光坑道」としていたりその中にお子様向けアトラクションが少なからずあったりとほぼ観光施設に振り切った構成は、別子銅山記念館や東平地区の見せ方と対比すると浮いている感が否めません。もっとも江戸時代の採鉱は旧別子地区で行われていたわけですから、それを端出場で見せること自体にそもそも無理があるのですが、旧別子地区のアクセス(登山の領域)を考えると多少の方便はやむを得ないかもしれません。また、もったいないと思ったのはやはり端出場の本館2階にあった見た目の軽さのわりに内容が充実した展示で、これらは飲食店や温泉施設に向かう観客が素通りするような場所にパネルで展示するのではなく、独立した展示室にきちんと掲示してじっくり読ませる工夫があってもよいように思いました(この意味で旧端出場水力発電所が単独の博物館として機能していたのは好印象でした)。

そして最後に欲を言わせてもらえば、製錬の工程についての歴史的変遷を含む詳しい説明がほしかった。東平や端出場は鉱石を運び出すところなので、仮に今回訪問した三箇所のどこかで解説するとしたらそれは記念館の役割になるのかもしれませんが、それにしても全体として鉱石の採掘から搬出までの過程に重きを置いた展示になっていたような気がします。しかし、佐渡金山展示資料館が金の製錬工程の解説にかなりの力を注いでいたことからも窺えるように、多くの人(少なくとも私)は「石から金属を取り出す」という魔法のような技にこそ魅力を感じるのですから。

なお、このようにポジティブ・ネガティブ両面の感想が出てくるのは、今回初めて別子銅山の歴史を学んでみてその産業遺産としての意義を感じたからですし、同時にこの感想(要望)が施設の採算という観点を度外視していることを自覚してもいます。

今回の四国旅行では、沢登りこそできたもののピークを踏んだり縦走したりはできなかったのですが、新居浜市街から見上げる東赤石山ほかの山々はすっと背筋を伸ばしたように高く聳えていて魅力的。いずれ再び愛媛県を訪れて、できることなら石鎚山からこの辺りの山までを日数をかけてのんびり歩きたいものだと思いながら、夜行バスに乗って翌日の早朝に渋谷に戻りました。

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