五十
2026/08/17
ずいぶん前に購入していたもののずっと積ん読になっていた『日本人とエベレスト植村直己から栗城史多まで』(2022年3月1日山と溪谷社発行)を、ようやく読了(以下、登場人物については敬称略)。
本書は帯に記されているように、エベレストにおける日本人初登頂からの50年を、既発表の論考の再録と書き下ろしとをとり混ぜて振り返るもので、それぞれの章が独立したトピックを扱っていながら、全体として日本人とエベレストとの関わりについての通史のようにもなっています。その章立てと各章のあらましは、次のとおりです。
- 第一章 初登頂へ、二つの登山隊
- 1970年5月に松浦輝夫・植村直己たちを日本人として初めてエベレストの山頂に送り込んだ日本山岳会(JAC)隊と、サウスコルからのスキー滑降を実現した三浦雄一郎隊。二つの日本隊の間に生じた軋轢や、登頂はしたものの主眼であった南(西)壁からの登攀を実現できなかったJAC隊の「不完全燃焼」などが率直に綴られます。松浦・植村両氏は世界で25・26人目のエベレストサミッターとなったのですが、この時点ですでにネパール側のノーマルルートである東南稜ではなくバリエーションルートである南(西)壁を志向していたこと、その登攀技術を有する者としてJACがあえて山学同志会の小西政継を招聘したことなど、興味深いエピソードが含まれていました。
- 第二章 女性だけでエベレスト
- 1975年5月、田部井淳子が世界で初めてエベレストの頂に立った女性となった女子登攀クラブの活躍。隊長が私事のために一時帰国したり、C2で雪崩に見舞われたりと大変な場面もあったものの、無事に目的を達成。
- 第三章 「三季登頂」への決着
- 秋・春とエベレストに登頂し、1982年12月27日に冬季登頂をも実現したものの、頂上直下でのビバーク中に(おそらく)暴風にツェルトごと飛ばされてしまった加藤保男の悲劇。
- 第四章 無酸素登頂の長い一日
- 1983年10月8日、この日いずれも無酸素で頂上に立った山学同志会隊(鈴木昇己ら)とイエティ同人隊(遠藤晴行ら)。しかし遠藤自身が後に述べているように、酸素ボンベを使用し彼らに先んじて登頂していたアメリカ隊のラッセルがなければ日本隊の登頂はおぼつかず、そしてここでも二隊合わせて3人の犠牲を出してしまいました。
- 第五章 交差縦走と「三国友好」
- 1988年のプレ・モンスーン、日本・中国・ネパールの三国合同によるチョモランマの交差縦走。南側隊は三国の足並みが揃わなかったこともあって日本人は登頂できず、かたや北側隊の第一陣は計画通りの登頂と中ネの南側隊との交差を実現したものの、中国側の政治判断により第二陣を山頂へ送り出すことができず「後味の悪さ」を残します。
- 第六章 バリエーションの成果
- 1993年12月の群馬県山岳連盟隊による「冬の南西壁」と、1995年5月の日本大学隊による「北東稜」の初登攀。エベレストが「大衆化」していこうとする時期に実現した、残り少なかったパイオニアワークの詳細な記録。
- 第七章 悪夢の大量遭難
- 1996年5月の大量遭難は、難波康子さんの死を伴ったことで日本人にとっても他人事ではない事故でした。この章ではその事故の顛末を仔細に後づけると共に、時代背景としての公募登山隊の隆盛によるエベレストの「大衆化」についても言及しています。
- なお、この事故のあらましについては〔こちら〕も参照のこと。
- 第八章 清掃登山と発信力
- 1990年代に始まったヒマラヤの環境保護の取組みを、JACが中心になって立ち上げた日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラストと、野口健の数次にわたる清掃登山を通じて紹介します。
- 第九章 記録への挑戦
- 世界最高齢登頂の記録を樹立した三浦雄一郎と渡邉玉枝(女性としての最高齢)。歴代の最年少セブンサミッターとなった野口健・石川直樹・山田淳。ただし、野口にとって「最年少」はスポンサー獲得の手段にすぎなかったし、石川・山田はアスリートとして充実している20代前半に成し遂げたセブンサミットに「記録としての価値はない」と冷めています。しかし、その二人が最高齢については「すごいこと」と口を揃えているのが面白い。
- 第十章 日本人の公募隊
- エベレストの公募登山を牽引するガイド、倉岡裕之と近藤健司。日本人をエベレストの山頂に立たせるためのノウハウが語られる本章は、私自身が近藤さん率いるアドベンチャーガイズ社のツアーでエベレストBCまで歩いたりアマ・ダブラムに登ったりしたことから、とりわけ興味深く読みました。エベレストに向けてのポイントになるのは、まず先に6000m峰(アイランド・ピークやロブチェ・ピーク)と8000m峰(チョ・オユーかマナスル)を登って高所登山と共にネパールという国を知ること、そして本番ではカトマンズ滞在中やキャラバン中にストレスを溜めさせない生活管理とヘリコプターの積極的な活用による体力の温存です。
- 第十一章 「栗城劇場」の結末
- 「世界七大陸最高峰単独無酸素登頂」を標榜してエベレストに挑み続け、2018年に南西壁からの登頂を断念して下降する途中で墜死した栗城史多。彼はなぜ無謀なルート選定と失敗を繰り返したのか。本書はバッシングにさらされ苦しんだ栗城が「否定という壁への挑戦」そのものを目的化したのではないかと推測していますが、それにしてもあの結末はひどすぎます。
- なお、彼の死に至る経緯については以前読んだ『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』も踏み込んだ分析をしていますが、本人の口から語られる機会は永久に失われているので、真相はどこまでも不明です。
- 終章 これからのエベレスト
- 公募登山隊の集中とエベレスト山頂直下での渋滞(ショッキングな写真つき)、ネパール人ガイドによる公募隊の台頭、クライアントの質の変化など、エベレスト登山にまつわるさまざまな変化が、本章がまとめられたCOVID-19の頃の状況をベースに点描されていきます。筆者はコロナ終息後のエベレスト登山には「大きな変化」がみられるのではないかと予想していましたが、はたして現実はどうなっているでしょうか。
こうして本書を読み終えてみると、世界最高峰という唯一無二の存在であるエベレストと日本人との半世紀にわたる関わりが体系的に理解できて有意義なものでした。また、第一章から第六章までエベレストの山頂は組織化された岳人のものであったのに対し、第七章以降では登山の主体が公募隊に変わっており、そうした中でエベレストを舞台とした「パイオニアワーク」はもはや失われているという大きな潮流を読み取ることもできます。とにもかくにも、積ん読の一冊を片付けることができて幸いでした。
なお、上の画像の左端に聳える尖ったピークがエベレストですが、実は、私自身はエベレストに登りたいと思ったことがありません。その理由は、経済的な問題、時間的な問題などハードルが高いせいでもありますが、何より酸素ボンベの力を借りて山に登るという行為に魅力を感じられないからです。
私が初めて高所の厳しさを実感したのはキリマンジャロ(5895m)登山のときで、日本では決して味わえないそのときの息苦しさが「再びあの薄い空気の中に身を置いてみたい」という気持ちに変わり、その帰結として酸素ボンベはもとよりダイアモックスなどの高山病予防薬も使用しないクリーンなスタイルでのアマ・ダブラム(6812m)につながっています。つまり自分にとっては、自身の身体能力(高所順応力)の限界を突き詰めることにこそ、ヒマラヤの山に登る意味があると考えているわけです。
ただし、だからと言って公募隊に参加してエベレストに登る行為に価値を認めていないわけでは決してありません。長いキャラバンや不自由なBCでの暮らしをこなし、心身の持久力を試されながらBCより3500mも高いところにある山頂への登頂の機会を窺うエクスペディションの厳しさは、6000m峰のそれとは比較にならないものであるはず。それに、たとえガイドがついていようがフィックスロープを使っていようが、8848mの高みまで自分の身体を運ぶのはあくまで登山者自身の足なのですから、その完遂は理屈抜きに賞賛に値します。