優雨

Memorandum #1264 - 優しく雨ぞ降りしきる読書

2026/08/04

優しく雨ぞ降りしきる」サラ・ティーズデール〔訳〕森優

優しく雨は降りしきり、土の香深くたちこめ、
燕は、微かに翼きらめかして、空に舞う

夜更ければ、よどみに蛙鳴きたて、
畔のすももは、真白にわななく

駒鳥は焰の羽根を身に飾りたて、
垣低く、気ままなふしを歌う

戦さを知る者、ひとりとてなく、
そのいつ終わるとも、知る者ついになし

人のうからのなべて絶え果つるとも、
小鳥も草木も、これに心掛くることあるまじ

暁にめざめし春の女神すら、
我らが去りしことをば、それと心づかざらん

レイ・ブラッドベリ(1920-2012)の代表作のひとつ『火星年代記』(〔訳〕小笠原豊樹ほか)は、短編連作(全27編)の形をとって長大な[1]「年代記」を構成し、その中で地球人による火星探検と先住民である火星人との対立、地球人が持ち込んだ疫病による火星人の衰退と地球人の植民、さらに地球での破滅的な戦争を背景とする地球人たちの人間模様を描きます。主題だけをとればSFと言えなくもありませんが、SF的な道具立てはロケットくらいのもので、収録された短編の多くは機知に富む寓話性と詩情と時にユーモアを備えています。旧大陸を地球、新大陸を火星になぞらえた文明批評と読むこともできるかもしれません。そして、この『火星年代記』に収録されている一編「優しく雨ぞ降りしきる」は冒頭に掲げたサラ・ティーズデール(1884-1933)の詩を引用したもので、年代記全体の中では最終編の一つ手前に置かれ、核戦争によって死の世界となった地球の姿を描きます。

物語は全自動化された「家」が住人たちを起床させようとするところから始まり、朝食が作られしばらくしてから片付けられ、掃除が行われ庭に水が撒かれと「家」の甲斐甲斐しい仕事ぶりが淡々と描かれます。午後には子供部屋の壁や床にサファリの情景が再現され、やがて夕食が用意されて、夜ともなれば「家」は住人の一人が好きな詩「優しく雨ぞ降りしきる」を朗読し、穏やかな一日を終えて「家」も眠りにつきます。しかし「家」が奉仕している住人たちの姿はそこにはなく、その痕跡は焼け焦げた外壁に「あの恐ろしい瞬間」に灼きつけられたシルエット(芝を刈る夫と花を摘もうとかがんだ妻とボール遊びをしていた二人の子供の形)として残されているだけです。そして、深夜に吹いた風に落とされた樹の大枝が誘発した火事によって、自動消火設備の奮闘にもかかわらず「家」は焼け落ちてしまい、夜明けの光の中で瓦礫と灰燼の都市に同化した「家」が時を告げる声を虚しく発し続ける様子が描写されて物語は終わります。

私が初めてこの短編を読んだのは、『火星年代記』の一編としてではなくブラッドベリの自選短編集『万華鏡』の最終編としてでした。それは確か私が高校生の頃で、虚無的な結末が残す深い余韻にしみじみとさせられたものです。ところが後に『火星年代記』を読み通したとき、本作がまるでジグソーパズルのピースのように年代記の一部として不可欠の物語になっていたことを知り、感銘を受けたものです。

そんな具合に半世紀ほどもつきあいのあるこの短編の話をここで取り上げたのは、今日が2026年8月4日だからです。

現在流布している『火星年代記』は1997年にブラッドベリ自身が手を入れた改訂版で、このときブラッドベリはいくつかの挿話の差替えを行うと共に、各エピソードの時代設定を31年後ろ倒しにしました。この結果、現在の版での「優しく雨ぞ降りしきる」は2057年8月の物語になっていますが、1950年に出版された最初の版(つまり私が初めて本書を読んだときの版)での「優しく雨ぞ降りしきる」は2026年8月4日の朝から翌朝までの物語です。こういう風に、かつて読んだ物語の時代設定に現実の日付が追いつく事例はいくらでもあって、典型的にはジョージ・オーウェルの『1984年』がまず思い浮かびますし、映画ならもちろん『2001年宇宙の旅』。アニメではNHKで放映された『未来少年コナン』の冒頭で説明される地殻崩壊が2008年7月でした。これらに共通するのは、作中で設定された時代に到達してみるとそこで描かれていた科学技術も超国家も(まだ)存在しないという点ですが、「優しく雨ぞ降りしきる」の場合は、ここまでの完全自動化には至っていないもののスマートホームの発達ぶりから、あと31年も待たなくても作中のような完全自動家屋ができているのではないかと思えます。

こちらは1984年に旧ソ連において制作されたアニメーション。

原作に対し多少アレンジが施してあり、突き抜けたディストピア感がさすがソ連という感じですが、最後に朗読されるのは、やはりティーズデールの詩「優しく雨ぞ降りしきる」のロシア語訳です。

なお、「優しく雨ぞ降りしきる」の次に置かれた最終短編「百万年ピクニック」は『火星年代記』の中で私が最も好きな作品です。人類が死に絶えた地球を舞台とする「優しく雨ぞ降りしきる」と対をなすように、こちらはひと組の家族(パパとママと三人の子供たち)の火星でのピクニックの様子を子供の一人ティモシイの視点から描いて、『火星年代記』の締めくくりにふさわしい静謐な余情を湛えています。

「火星人に会わせてあげるよ」というパパの言葉に大喜びする子供たち。一家を乗せたボートは運河を進み、廃墟となった都市を通り過ぎていきます。実は、彼らは滅亡への道を進む地球からかろうじて脱出してきた家族で、ピクニックの途中でついに地球からの電波が途絶えると、パパは子供たちに向かって、自分たちとあとからやってくるひと握りの人たちとでもう一度最初から(人間の歴史を)やり直していかなければならないと語りかけ、その上で火星人を見せてあげようと皆を夜の運河に誘います。ラストシーンは次の通りで、これを初めて読んだときは、自分もティモシイと同様に震えそうになったことを覚えています。

運河に着いた。運河は、夜の中で、長々とまっすぐに横たわり、冷たく濡れて、光を反射していた。
「ぼく、とても火星人が見たかったんだ」と、マイケルが言った。「どこにいるの、パパ?見せてくれるって約束したじゃないか」
「そうら、そこにいるよ」パパは、マイケルを肩の上に移して、真下の水面を指さした。
火星人がそこにいた。ティモシイは震えはじめた。
火星人はそこに──運河の中に──水面に映っていた。ティモシイと、マイケルと、ロバートと、ママと、パパと。
火星人たちは、ひたひたと漣波の立つ水のおもてから、いつまでもいつまでも、黙ったまま、じっとみんなを見あげていた。

脚注

  1. ^「長大な」と書きましたが、この連作の最初の短編「ロケットの夏」は(改訂版では)2030年1月、その後に続く23の短編もすべて2030年代の話とされており、最後の3編が2057年の話とされているので、全体としては実はわずか27年間の「年代記」でしかありません。ほとんどの話は独立した情景を描き、各話に共通する主人公もいませんが、2032年6月「月は今でも明るいが」に登場する第四探検隊のワイルダー隊長とハザウェイに限っては、2057年4月「長の年月」において思わぬかたちで再会することになります。