思考
#1267 - 山崎雅弘『アイヒマンと日本人』読書
2026/09/14
山崎雅弘『アイヒマンと日本人』を読了。先日読んだ『夏への扉』が爽快なポジティブさを備えていたのに対し、こちらはずっしりと重い読後感をもたらしました。
アドルフ・アイヒマン(1906-1962)は、ナチス親衛隊の中間管理職としてホロコーストにおける絶滅収容所へのユダヤ人の大量移送を遂行した人物。当初、ドイツはドイツ領およびその実効支配下にある地域(オーストリア、チェコ)からのユダヤ人排斥のみを企図していたものの、かたや第二次世界大戦の勃発に伴うポーランド占領で領内のユダヤ人の人口が激増する一方、移送先として目論んでいたパレスチナは交戦国イギリスの信託統治領、独ソ戦で早期に占領できると踏んでいたソ連領も戦線膠着、といずれもあてにできなくなったことから、「排斥」から「絶滅」へと方針を転換することになります。アイヒマンはこうした政策に有能な実務家として関与し、膨張していくドイツ占領地のユダヤ人を絶滅収容所へと効率的に輸送する責務を担うことでホロコーストの実行者の一部であり続けますが、ドイツ敗戦の後にアルゼンチンに逃亡し、ここで10年間の潜伏生活を送った後、1960年にイスラエルの情報機関モサドによって拘束されエルサレムに連行されて、絞首刑に処せられます。
本書は、こうした彼の生涯をドイツのユダヤ人排除政策の変化と共に時系列に沿って丹念に紹介しており、その中でホロコーストの実態についても詳細な説明を行っていますが、本書の主題は最終章において描かれた、アイヒマン裁判に対するユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」という問題提起や日本人特派員・犬養道子らの傍聴記、そして心理学者スタンレー・ミルグラムによる「アイヒマン実験」を通じて解明されようとした「人格異常者などではない一介の人物(であるアイヒマン)がなぜかくも残虐な行為をなし得たのか」という点にあります。
アーレントは、裁判傍聴後に発表した『エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』の中で、裁判の正当性への疑義やユダヤ人評議会がナチスに協力した事実を指摘した上で、アイヒマンについて彼個人の異常さが問題の本質ではなく、むしろ彼の「正常性」の中にこそ、恐るべき闇がある
と示唆しました。この一連の主張はユダヤ社会に激震をもたらし、アーレントは厳しいバッシングを受けると共に多くの友人を失うことになるのですが、しかしアーレントの主張はアイヒマンを擁護しようとするものではもちろんありません。アイヒマンがたびたび主張したように「自分は上官の命令に忠実に従っただけだ」としても、大量虐殺の指示に「服従」し実行したということはこれを「支持」したことに他ならず、被告はその地位においてではなく一人の人間として裁かれるのであるとして、アーレントはアイヒマンが刑を免れ得ないという結論を導き出しています。
ただし本書が全体の5分の3のボリュームを用いて明らかにしたところによれば、アイヒマンは(自ら殺戮に手を染めたわけではないにしても)ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の「効率的稼働」を、いわば流通管理(ロジスティクス)の面から支え続けたキーマン
であって、アーレントが想定したほどには受動的な立場ではなかったのですが、それでもアーレントのこの論旨の妥当性は揺るがないように思えます。
次に紹介される犬養道子は、法廷でのアイヒマンの様子からやはり「彼はとくに『悪魔らしく』ない普通の男である」と考え、もしそうであるなら自分を含む「己を普通だと思う人間」の奥底にも、彼に通じる部分があるのかも、と戦慄
したとレポートし、さらに後日の別稿においてアイヒマンは、要するに、われわれのまわりに今日もいる「何千人の中の一つの顔」である。アジとテロにまきこまれたとき普通の男が何になり得るか―これこそアイヒマン裁判の、最も深い、そして最もおそるべき教訓なのである
と結論づけました。実はアーレントは、誰もがそれぞれの内面に『内なるアイヒマン』を持っている
と一般化することはかえってアイヒマンの罪を矮小化するものだと戒めているのですが、続いて紹介された「アイヒマン実験」を見ると、犬養の主張にむしろ共感を覚えます。
この「アイヒマン実験」の具体的な内容とその結論については〔Wikipedia〕を参照してほしいのですが、本書の著者は実験の意義をこのように要約しています。
ミルグラム実験がわれわれに教えているのは、一般的に「好ましい特質」とされる「まじめさ」が持つ危険性だとも言える。客観的に状況を判断するのではなく、ただ上位者の命令に従うことが「まじめ」だという形式的理解しか持たない人間が、人道を外れた命令を受けた時、「まじめさ」ゆえに、自覚がないまま災厄の拡大に加担することになる。
かくして著者は《いかにして社会や組織が「アイヒマン的思考」と訣別すべきか》という命題を立て、次のように結論づけています。
人道面も含め、自分の行ないに関する価値判断を、自分自身で下すのか、それともその評価を所属組織の上位者に全面的に委ねるのか。
所属する組織が非人道的な方向へ動き出した時、価値判断の基準を内面に持つ個人は、このようなことはおかしい、あるいは許されないと考えて、それを止める、または減速させる方策を探し、必要であれば個人として「異議申し立て」や「抗議」の声を上げることを厭わない姿勢を持ち続けなくてはならない。
己の「卑怯さ」を表面的な「まじめさ」でカモフラージュする「アイヒマン的思考」に自分を乗っ取られることを防ぐ方法は、そこにしか見当たらないからである。
ホロコーストのような人類史上の災厄と同列に扱うことはできませんが、日々報道されるさまざまな社会事象(最近の事例で言えば原発のデータ不正や某社の不正会計、遡ればサリン事件なども)の根底にも、こうした「アイヒマン的思考」が横たわっているように思えます。本書のタイトルが『アイヒマンと日本人』であるのも、本書の締めくくりにおいて筆者が述べているように「アイヒマン的思考」から逃れるための有効な処方箋が共有されているとは言えない現代の日本社会において、アイヒマンはなお我々の身近に(あるいは我々自身の中に)棲息し続けているという問題意識に基づくものです。
ずいぶん前にハンナ・アーレントの伝記を読んでから、アイヒマン論争については関心を持ち続けていたのですが、アーレントの著作は長大かつ難解であることで有名で、このため主著である『全体主義の起源』や『人間の条件』はもとより『エルサレムのアイヒマン』にしても、おいそれと手を出すことができないと思いつつ10年以上が経過してしまいました。そうした中でたまたま本書の存在を知る機会があり、これならどうにか太刀打ちできるだろうとすぐに手に入れて読み進めたところ、重い主題を扱っているにもかかわらず手際の良い事実経過の整理と説得力のある問題提起とで非常に読みやすく、わずか二日で読み終えることができました。
しかし、著者が言うように価値判断の基準を内面に持つ
ためにはどうしたらいいのか。本書にはその答は書かれていませんが、映画『ハンナ・アーレント』(2012年。本書を読むにあたりAmazon Prime Videoで視聴)の中でアーレント(〔演〕バルバラ・スコヴァ)がバッシングの嵐の最中に行った講義における次の言葉は、この点についてのヒントを与えてくれるかもしれません。
「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄した。それは思考する能力だ。その結果、モラルまで判断不能になった。『思考の風』がもたらすものは知識ではなく、善悪を区別し、美醜を見分ける力である。私が望むのは、考えることで人間が強くなることだ。危機的状況にあっても考え抜くことで、破滅に至らぬよう」
さて、ここまで予習ができればそろそろ、アーレント自身の著作に取り組み始めてもいいのかもしれません。