灌頂

2009/06/12

『平家物語』を、ようやく読了。

……こう書くと、なんだかいやいやながらに読んでいたような言い方ですが、通勤の行き帰りにちょっとずつ読み進め、しかも途中で別の本に手を出したりしていたので、巻頭の「祇園精舎」を開いてから最後の「女院死去」まで、実に1年もかかってしまいました。

『平家物語』は、保元・平治の兵乱を経て平清盛が権勢を確固たるものにした後から書き起こされ、清盛と後白河院の二軸対立を中心にゆったりと筋を進めた後、清盛の死と源氏の勃興を経て、後半は源平合戦から平家の都落ち、そしてその滅亡までを一気呵成に描ききる軍記物。その文体はほれぼれするくらいの美文で、和漢の典籍の縦横無尽な引用からは作者の教養の程が窺えるうえに、たとえば経正の竹生島詣での穏やかな叙述の次の章に一転して木曽義仲の蠢動をぞっとするほどの迫力で語ってみせるなど、極めて巧みな筋の運びで読ませます。また、一ノ谷での敦盛最期や屋島での那須与一のエピソードなどは誰でも知っているでしょうが、何といっても凄いのは壇ノ浦での戦いの描写。一門滅亡を目前にして鬼神のような働きで義経に肉薄する猛将・能登守教経の豪勇、見るべき程の事は見つと語って慫慂と海に沈んだ知将・新中納言知盛の見事な死に様に圧倒されるとともに、浪のしたにも都のさぶらふぞと言う二位尼に抱かれて入水した安徳帝を悼む一節はひときわの美文が痛切です。

前にも書いたように『平家物語』を読み出したのは能を観る上での基礎知識を蓄えようというもくろみがあってのことだったのですが、なるほど読み進めてみると、こうした縦糸の中に、夫婦愛(夫・通盛の後を追って身投げした小宰相や、南都に引き渡される直前の重衡と妻・大納言佐の別れ)、親子愛(一ノ谷での梶原父子や壇ノ浦での宗盛父子)、主従愛(木曽義仲と今井兼平)、そして兄弟の対立(頼朝と義経)などのさまざまな人間模様が印象的なエピソードとして随所に散りばめられており、そうしたエピソードの一つ一つが、能作者に格好の題材を提供していることがよくわかりました。つまり、これまでは「熊野」「通盛」「清経」などから『平家物語』の世界を垣間見るという見方だったのですが、これからは『平家物語』が先に頭の中にあって、なるほどこの謡曲はこのエピソードをふくらませたのか、という(本来の)見方ができるようになったわけです。また、『平家物語』はもちろん文楽や歌舞伎にも題材を提供しているわけで、たとえば『義経千本桜』の「大物浦の段」での内侍・安徳帝の描写は『平家物語』の「先帝身投」をそのまま引いていますし、「すしやの段」で維盛が妻の内侍に高尾の文覚へ六代が事頼まれよと息子の六代の庇護を文覚に求めるよう指示しているのは、北条時政に捕われてあわや斬られようとした六代を文覚が頼朝と掛け合って救ったエピソードに由来するということもやっとわかりました。しかし『平家物語』は、義経が都を追われ、やがて後白河院も、さらには頼朝も亡くなった後も生き延びたその六代(平家嫡流の最後の1人)が遂に斬られるところ(「六代被斬」)で本編十二巻を終えた後、エピローグとして少し時間を遡り、大原の寂光院を訪れた後白河院に尼となった建礼門院が自らの生涯をしみじみと語るある一日を描き、最後にその往生をもって物語全体を締めくくる「灌頂巻」を配します。

以下、蛇足。

我々は平家滅亡の結果を知っているので上記のように「一気呵成に」平家が追い落とされたように思っていますが、『平家物語』の中でもそれとなく記されているように、後白河院は途中まで平家との妥協を模索した様子です。それというのも、平家が都を落ちた際に安徳帝と共に三種の神器を持ち出したからで、おそらく後白河院にとっては政治交渉で三種神器を取り戻すことが最優先事項だったのでしょう。しかし遂に平家を最後まで追い詰め、壇ノ浦の合戦で玉と鏡は回収したものの剣を失うことになったのは、あくまで軍事決着を急いだ源氏の圧力に押し切られた結果であり、平安貴族層と鎌倉武士団との力学の転換点がここにあったのかもしれません。

ところで、剣が二位尼と共に海に沈んだということは、今は三種の神器は揃っていないのか?という疑問が湧きますが、しかしWikipediaによれば、もとから剣は熱田神宮に、鏡は伊勢神宮に安置されており、歴代天皇が即位に際して用いる神器は玉以外は形代(レプリカ)なのだそうです。