三板

2011/03/10

NHKエンタープライズから今年の2月に発売された『大氷壁に挑む 谷川岳・一ノ倉沢』の発売記念イベントとして、クライマー廣川健太郎さんと、谷川岳の主と言うべき馬場保男さん(元・谷川岳山岳警備隊 / 谷川岳肩の小屋管理人)によるスライド&トークショーが開催されました。場所は、モンベル渋谷店5階のイベントスペース。私も、仕事を終えると速攻で駆け付けました。

廣川健太郎さんとはひょんなことから何年か前に神泉で一緒に飲んだことがあり、その後も赤岳鉱泉でお会いして挨拶したり、冬の鋸岳で遭難者が出たときは同時期に我々が同じところを縦走していたことから捜索に出ようとするヒロケンさんと電話で会話をしたりしたことがあります。また馬場保男さんはこれまで直接お目にかかったことはありませんでしたが、岳人2009年5月号に馬場さんへのインタビューが数ページに渡る記事になっていたのを覚えていたので、初めてという感じがしませんでした。

そして司会に立った女性は、ヒロケンさんの『チャレンジ!アルパインクライミング』の読者ならご存知のJECC長谷川文さんで、こちらもその華麗な登攀姿を同書の随所で見ているのでおなじみでしたが、その勇姿の数々とは打って変わって、語り口は意外にも(?)とてもかわいらしい感じの方でした。

イベントは、まず作品のダイジェスト版の上映からスタートしました。コンテンツのメインは、冬の谷川岳一ノ倉沢・滝沢第三スラブ(通称「三スラ」)の登攀です。迫力ある30分弱の映像の後にヒロケンさんと馬場さんが登場して、長谷川さん主導のユルいトークの応酬。お二人の出会いは、学生時代に初めて三スラを登った後下山してきたヒロケンさんが、登山届を出していなかったために怒られた、その相手が馬場さんだったというものだそうですが、実際の馬場さんはいかついお顔に似合わず、その穏やかな語り口から優しい人柄が窺えます。

ついで、ヒロケンさんが用意したスライドの映写とヒロケンさん自身による解説。このスライドショーが何というか、妙にとりとめのないもので、本編とはあまり脈絡のないような夏冬の谷川岳を中心とするさまざまな写真がストーリー性のない順番で次々に映し出されるので、当のヒロケンさんも「これはどこだったっけ?」という場面がしばしばありました。しかし、そうした中にヒロケンさんのマッターホルン北壁登攀時の凍傷関係の写真があり、かなり生々しい負傷の様子(親指から中指までを切断された足など)もそのままに映し出されて、会場からは小さい悲鳴が上がっていました。

その後、Q&A、本映像のディレクターである大島隆之氏(NHKエンタープライズ)のトークと続きましたが、大島氏の話の中では撮影時の苦労話として出発前夜、20時くらいに就寝したものの撮影クルーを引率するガイド氏のイビキが尋常ではなく、そのため同じテントの中でその被害にあった長谷川さんが「……殺シテヤル!」とつぶやいていたという話が暴露されました。しかし、長谷川さんより先に眠りに落ちることに成功した大島氏も名だたる寝言の主だったそうで、長谷川さんは大事な登攀の前夜、ほとんど眠ることができなかったのだそうです。お気の毒です。

さて肝心の映像作品ですが、帰宅してから見てみたところ、これがなかなかの出来でした。一応の基本ストーリーとしては、マッターホルン北壁登攀によって受傷した50歳のクライマーであるヒロケンさんが、再起を期して国内屈指の難ルートである冬の三スラに挑むというもの。おや、この話の運びはどこかで聞いたことがあるぞ、と思う方はスルドイ。『白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻』に似ています。しかし、ヒロケンさん自身の淡々とした性格に加え、ヒロケンさんにとって3度目の三スラということもあるのでしょうが、この作品では感傷的な要素はほとんどなく、着実に一本を片付けていく、という職人的なクライミングが展開していきます。

山野井夫妻のグリーンランドなら数日にわたるクライミングなのでそれだけで十分映像作品になりますが、三スラの方はワンデイ。とはいえ、そこは国内の山だけに映像ソースの収集には苦労がなく、雪崩の巣である一ノ倉沢の模様や、一ノ倉沢の歴史(有名な衝立岩宙吊り遭難の映像も)、さらにはヒロケンさん自身のプロフィール、山野井氏のインタビューが要所要所に盛り込まれ、さらに驚いたことに、三スラを故・森田勝氏と共に初登した岩崎英太郎氏も登場します。

登攀シーンは全89分の内の30分弱ですが、まず前日に一ノ倉沢に入って滝沢の取付まで偵察したときのスノーシャワーの映像が臨場感満点。頭上から襲ってきたスノーシャワーがメンバーに降り注ぎ、身動きもできないまま1分以上も耐え続ける様子がばっちり映っていて手に汗を握ります。また、登攀当日三スラに入ったところでそのすぐ横にある滝沢本谷を駆け下る雪崩の様子が対岸からの映像で見事にとらえられていたり、状態の悪い氷に苦戦しながら突破するクライマーの迫真のボヤキが収められていたり、ドーム基部のトラバースの高度感も手にとるようにわかって、最後に国境稜線に出て握手を交わすヒロケンさんたちに拍手を送りたくなりました。ただ、そこでも3人とも特に興奮する様子もなく、ひと仕事終えたという雰囲気を醸し出していたところがボルダリングの映像作品との大きな違いで、なるほどアルパインクライマーとボルダラーとは根本的に人種が違うんだな、という感じがしました。

ヒロケンさんのトークに少しだけ話を戻すと、ヒロケンさんは学生時代に冬のテールリッジでのビバークを経験し、そのときに周囲の各スラブ・ルンゼがどのくらいの積雪で雪崩を生じるのかを身をもって体験したことが今に生きているそう。実は自分は、今月の最初の週末に一ノ倉沢に入る予定だったのを直前まで新雪が降り続いたので山行中止にしてしまったのですが、冬の一ノ倉沢を出合から覗くだけのためだけにであっても足を運んでもよかったかなとも思いました。また「意地だけで行く、誰かが登ったから行く、というときは危ない。気持ちが『登るぞ!』となっているときに登るべき」という話も心に響きました。

イベント終了後は、作品購入者に対するヒロケンさんによるサインのサービスがあって、私もDVDのパッケージにサインしてもらいました。ヒロケンさんには、前に神泉で飲んだときにも彼の著書である『チャレンジ!アルパインクライミング』にサインとメッセージをもらったことがあるのですが、実は彼と私は年齢的には同学年。お互いにまだまだ頑張りましょう、という言い方はレベルが違い過ぎるのでおこがましいにせよ、凍傷手術後の後遺症(切断面が完治していない、身体のバランスが悪くなってしまった)に依然悩まされているというヒロケンさんには、これからもエールを送り続けたいと思います。