四位

2012/06/11

平成24年度の観世会能楽講座、2月の「土蜘蛛」・4月の「善知鳥」に続いて今月の第3回は、7月の定期能にかかる「通小町」がテーマです。「通小町」はもと「四位の少将」といい、『申楽談儀』の中に根本、山とに唱導のありしが書きて、金春権守、多武峰にてせしを、後、書き直されしとなりとあるように、延暦寺衆徒が作った宗教劇がベースにある曲と考えられています。

例によって最初に宗家が出てきて挨拶の後、松岡心平氏と、東京大学の小林康夫氏が登場。最初に松岡氏が「通小町」の梗概を説明した後、小林氏にバトンタッチしたのですが、小林氏の語りがどこまでも止まらず、この日の前半はほとんど小林氏の独壇場となりました。お二人のお話をかいつまんで紹介すると、こんな感じ。

  • 能は、観ている者が詞章を深く読み込んでいく中で、言葉の一つ一つから舞台の上にイメージを広げて自ら参加しなければならない、超映画とでもいうべきもの。
  • 「通小町」の詞章には、さまざまな謎なぞが仕掛けられている。「拾う木の実はなになにぞ」=「この身は誰だとお思いですか?」、「嵐に脆き落ち」=「四位」、「をの(己)とは言はじ」=「小野」、「なほ草深く露繁き」=「深草の少将」。
  • 名乗らないとは言いつつさりげなく小野小町であることを仄めかしているが、これは前シテがワキに毎日木の実爪木を持ってくるという徳を(抜け駆けで)積んだから。このことは、ツレとワキとの問答の中で忝なき御譬へなれどもいかなれば悉達太子は、浄飯王の都を出で……とブッダ出家を引くことでさらに強調される。
  • ワキが出向く市原野辺は、草深いところと描写されている。すなわち、深草の四位の少将の怨念フィールドが深い草のように小野小町を取り巻いているイメージ。
  • 百夜通いの記録のための「榻しじの端書き」とは、平仮名の「し」の字を書き付けていったということではないだろうか。ダメすか?(←松岡氏は苦笑しながら「ちょっとあやしい」とコメント)
  • 百夜通いなどできはすまい、という小野小町に対して「やってやろうじゃないか!」と通い詰める少将が、最初は牛車に乗っていたのに、徒歩裸足になり、蓑笠姿になって、官職を省みずどんどん落ちぶれていくその姿は、一つの「行」。暗い夜道を雨に打たれながら通い続けた黒塗りの色彩イメージが、最後に花摺り衣の色襲ね、裏紫の藤袴とついにカラフルになって小町のもとへ急行。ところがそこで突然ストップモーションとなり、シテの成仏をもって唐突に終曲となってしまう。理不尽な!とこれまでは思っていたが、改めて読んでみると、百夜通いの果てに月の盃=小町との婚礼を捨てる境地に達したことで、シテは救われ、またシテが小町をも救ったという話だということが見えてきた。

後半の宗家によるワークショップは、小書《雨夜之伝》を取り入れて思ひもよらぬ車の榻にから最後まで。この小書は、常のイロエが替わり、小鼓の流シがだんだん強く、音色も変えていくことで雨が強くなってゆくさまを表現する中、シテは笠を掲げて舞台を回り、最後にシテ柱に突き当たって笠を落し、もんどりうって拾い上げるというあらわな姿を示すものです。この小書が入るとあら暗の夜やから独り寝ならば辛からじまでが省略されることになりますが、それは同じ型が重なることになるから。「くどいことはやらないんです」と宗家が説明した後に思ひもよらぬ車の榻にと謡われると、一瞬で舞台上の空気が変わりました。さすが宗家、やはり凄い。ここでは、省略されると言われた部分もあえて再現して重なり具合を示してくれていましたが、確かに冗長な感もするものの、これはこれでありという気がします。 最後は、宗家と両先生による鼎談。笠を捨てるところでの力なさとは打ってかわり、盃に月を見る場面は強く演じる、そこに救済の光を見るということが語られた後、話がだんだんヘンな方向に変わっていって、ここでも違った意味での宗家ワールドが展開しました。

  • 先代宗家もたびたびこの曲を舞っているが、終曲では、常座に2人並んで合掌するときもあれば、和解してないから脇座にとどまっていてくれというときもあった。2人並ぶのは、うまいツレのとき。力のある者がツレを演じないと、シテがつらい!また、ツレが前場であまりに気分よく木実ノ段をやられると、ツレの位を守ってくれよと言いたくなる。もっとも、この曲がツレとシテとの対話に重きを置いているところは、今のシテ第一主義からすれば古式なのかもしれない。
  • シテの装束は、常の場合は水衣に大口、《雨夜之伝》になると狩衣・指貫で貴族らしさを強調することがあるが、自分としては前者のシンプルな姿で貴族をしっかり表現できる方が能らしくてよいと思う。
  • 目に見えぬ鬼一口も恐ろしやあら暗の夜やの2カ所で笠をかざすが、前者は片手で、後者は両手でかざす。これも、同じ型は繰り返さないということの表れ。
  • 見所が舞台上に想像力を働かせることで曲に参加するように、後見もシテとは違った立場で曲に参加していなければならないが、近頃はシテが困っているのに気づかない、むしろシテに気を遣わせる木偶の坊もいる。言われたことしかやろうとしない、これは能の世界だけじゃないですね。権利の主張ばかり、全部他人のせいにする。自己責任がなさすぎますよ!近頃は怒らないことにしましたけど(←と言いつつ怒っている)。

こちらは展示されていた装束。左から「赤地雪持松唐織」「茶萌黄段井桁桐厚板」「段地紋厚板」。次回は8月6日、とり上げられるのは「熊野」と共に能楽師の飯の種とされてきた「松風」の予定です。