宿題

2015/10/10

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(日高六郎訳)を読了。途中に中断をはさんで半年近くと、読み通すのに長くかかりました。

この本を再び手にとろうと思った直接のきっかけは、昨年11月に読んだ『ハンナ・アーレント』です。この中に出てくるテオドール・アドルノやダニエル・ベルといった名前から自分の教養学部時代の読書のことが連想されたとき、一度手にとってはみたものの読み通すことができなかった『自由からの逃走』に再挑戦してみようと思ったというわけですが、今から思えば読み通せなかったは無理もありません。単に授業の中で言及されたからというだけの理由で買い求めたものの、著者フロムの思想の背後にあるフロイト左派心理学や、執筆の動機であるナチズムの台頭へのフロムの危機感を理解しないままに字面だけを追っていたのですから。

本書の内容はさまざまなところで解説されていますが、ここでは最もわかりやすく著者自身の序文の一部を引用することにします。ここに『自由からの逃走』という一見逆説的なタイトルの由来が端的に述べられているからです。

本書の主題は、次の点にある。すなわち近代人は、個人に安定をあたえると同時にかれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。本書は予測よりもむしろ診断——解決よりもむしろ分析——ではあるが、その結果はわれわれの行為の進路に一つの方向をあたえている。なぜなら、全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を克服しようとするすべての行為の前提であるから。

フロムはまず、宗教改革時代における新教の教義、すなわち教会組織を中心とする伝統的な社会の絆から自由になったものの、そのことによって独立した個人が直面した孤独と孤立の感情による不安から逃れるために徹底的な自己放棄を通じた神(権威)への絶対服従を要求する教えを、そのような社会情勢を生んだ経済的背景を解説しつつ丹念に眺めた後、さらに近代的資本主義の発達が個人をますます孤独な孤立したものとし、人間を超えた目的 — あるいは1人の「指導者」に対する召使いの役割を受け入れる土壌を生み出したことを説明します。そうした逃避のメカニズムを、サディズム / マゾヒズム(対極のように見えていずれも相手に対する依存であることに留意)的性格としての権威主義的性格、抑圧の中から顔を出す破壊性、与えられたパースナリティを受け入れることで孤独を克服しようとする機械的画一性といったキーワードで説明したフロムは、遂に第一次世界大戦後のドイツにおいて下層中産階級に働いた権威主義のメカニズムがナチズムの勃興を促したプロセスを解き明かしていきます。

本書が著されたのは、その後のナチズムの行く末を知るべくもない1941年。フランクフルトに生まれナチズムの台頭により米国への亡命を余儀なくされたユダヤ人であるフロムは必要な完全性を犠牲にしても、現代の危機を理解するうえに役立つようなことがらを、すぐさま提供しなければならないとの焦燥に駆られて本書を記したのですが、その危機意識はしかしナチズムに対してのみ向けられているわけではなく、終章において米国のデモクラシーもまた個人の無意味さと無力さという現象(ファシズム台頭の温床)に見舞われていることを、自動機械という概念を用いて注意喚起しています。思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある、しかしフロムが本書執筆時に帰属している米国においても、人が自分自身の思考や決断をおこなう勇気を失わせる働きが社会を覆っていることを示したフロムの処方箋は積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存するという抽象的な言葉で記されていますが、この終章での叙述はやはり「完全性を犠牲」にして執筆を急いだだめに手薄であると言わざるを得ません。

しかし、ナチズムの台頭を促した権威主義のメカニズムや、没個性的な自動機械を生み出すデモクラシーの問題がすぐれて現代的な課題であることは、本書の中に散りばめられたさまざまの具体的な記述(いずれも我々が日々直面しており、考え込まされるもの)を読めば明らかです。ここでは、そうした中から「機械的画一性」を説明するパートでのフロムの言葉を一つだけ引用しておきます。

一般の新聞読者に、ある政治的問題についてのかれの考えを尋ねてみよ。かれは新聞で読んだ多かれ少なかれ正確な記事を、「かれ」の意見として答えるであろう。しかも——そしてこれが本質的な点であるが——かれは自分のしゃべっていることが、自分自身の思考の結果であると思い込んでいる。

35年前と同じく今回も読み通すことに苦戦しましたが、それは、こうした叙述の一つ一つに立ち止まらされたからです。とにかく、長らく宿題だった本書を読了することができて幸いでした。