塾長の備忘録

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私=juqchoの日常の雑感を不定期に綴る、個人的な備忘録。

鞦韆

2016/10/08

雨で始まった三連休の初日、喫茶店のソファに腰を落ち着けて別役実『空中ブランコのりのキキ』を一気に読み通しました。

別役実と言えば舞台上の1本の電信柱だけで不条理な世界を現出する劇作家のイメージがありますが、実は童話もたくさん書いています。NHKから委嘱されて児童向け番組「おかあさんといっしょ」の朗読コーナー「おはなしこんにちは」のために1972年から1973年にかけて20数本を提供することになったのがそのきっかけですが、そこは別役実のこと、童話と言いながら毎回かなりシュールな内容になりました。そのため視聴者(児童の親たち)から「もっとやさしいお話にするべきだ」という投書がNHKに寄せられたそうですが、NHKの当時のディレクターは意に介さずに不条理童話(?)を放送し続けたのだそうです。

お話の内容だけでなく演出も一風変わっていて、独特の雰囲気をもった女優の田島令子さんが15分間の時間枠で朗読するのですが、子供向け番組にありがちなカメラ目線はあまりなく、照明やセット、カメラワークもどこかモダンで、とても子供向けとは思えないつくりになっていました。かく言う私もこの番組のファンで、毎週金曜日は極力早く帰宅してテレビの前に陣取ったものでした。印象的なお話はたくさんありましたが、中でも強く記憶に残っていたのがこの「空中ブランコのりのキキ」です。

サーカスの花形ブランコのりのキキは、誰にも真似のできない3回宙返りで絶大な人気を博しています。しかしキキは、いつかは自分以外にも3回宙返りに成功する者が現れるのではないかという不安を抱え、同僚のピエロから人気なんておちたって死にやしない。ブランコからおちたら死ぬんだよ。いっそ、ピエロにおなりと慰められてもお客さんに拍手してもらえないくらいなら、わたしは死んだほうがいい……とまで思い詰めていました。

ある港町でのカーニバルで、別のサーカスのブランコ乗りがついに3回宙返りを成功させたことを波止場のおばあさんから知らされ、しばらく黙っていたキキは、やがておばあさんにほほ笑んで歩き始めます。おまえさんは、明日の晩4回宙がえりをやるつもりだねええそうです死ぬよいいんです。死んでもおまえさんは、お客さんから大きな拍手をもらいたいという、それだけのために死ぬのかね

次の夜、おばあさんからもらった薬を口にし見てください。4回宙返りは、この1回しかできないのですと心の中でつぶやくと、大きくブランコを振って空中に飛び出したキキ。4回宙返りの成功に客席の人々が思わず涙を流しながら歓声を上げる中、しかしキキの姿は忽然と消えてしまいます。

よくあさ、サーカスの大きなテントのてっぺんに白い大きな鳥がとまっていて、それがかなしそうになきながら、海の方へとんでいったといいます

空中ブランコ乗りとしての名声が落ちてしまえば生き続けられないとまで思い詰めるキキは、ピエロやおばあさんとの会話を通じてその自覚を深め、ついに命と引き換えに4回宙返りを成功させたのですが、そうしたキキの生き方(または死)が幸せなことだったのか、ピエロが言うようにそれ以外の生き方はなかったのか、あるいは、白い鳥となって飛んで行ったキキの魂は救われたのか(かなしそうになきながらとある点に救いが感じられません)などとさまざまに考えさせる深い話です。またこの回は、そのお話の内容と共に、朗読の田島令子さんが最後に感極まって泣き出してしまったことで深く印象に残ることになりました。

もっとも、別役実とNHKが幼児番組にぶつけてきた「アイデンティティー喪失への恐れ」(お客さんに拍手してもらえないくらいなら、わたしは死んだほうがいい……)という重い主題を視聴者がどう受け止めたかは定かではありません。

今回、ふとしたきっかけからこの話のことを思い出して『空中ブランコのりのキキ』を購入したのですが、「おはなしこんにちは」のために別役実が書き下ろした童話の多くはこの本ではなく『淋しいおさかな』と題する別の本にまとめられており、「空中ブランコのりのキキ」だけはNHKから絵本として出版されることになったために『淋しいおさかな』には収録されず、後日改めて他の童話と共に『空中ブランコのりのキキ』として出版されたのでした。『淋しいおさかな』には表題作のほか「みんなスパイ」「お星さまの街」など全22編、『空中ブランコのりのキキ』には「街と飛行船」「空中ブランコのりのキキ」「夕日を見るX氏」の短編3編と長編童話「黒い郵便船」がそれぞれ収められています。

それにしても、かつてのNHKの児童向け番組の充実ぶりには改めて感心してしまいます。以前紹介した『星の牧場』(これもテレビ版は別役実が脚本)もそうですし、筒井康隆原作の『タイム・トラベラー』やこれまた先に見た『とべたら本こ』を含む「少年ドラマシリーズ」もそう。こうした良質の児童向け番組を、NHKが今でも提供し続けてくれていたらよいのですが。