線記
2020/10/20
高橋大輔著『剱岳 線の記』を読了。
サブタイトルに「平安時代の初登頂ミステリーに挑む」とあるとおり、陸地測量部・柴崎芳太郎隊による剱岳登頂時(1907年)に発見された錫杖頭と鉄剣を手掛かりに、剱岳の「ファーストクライマー」は誰かを探索するという内容です。タイトルはもちろん、新田次郎の小説『剱岳 点の記』の本歌取り。
最初にネタバラシをしてしまうと、著者の出した結論は次のとおりです。
- いつ:平安後期の1142(康治元)年頃
- 誰が:松室法橋(興福寺僧侶寛誉)と万歳氏
- どのように:派遣された興福寺僧侶と万歳氏が立山川の遡行をし、現在ハゲマンザイと呼ばれる谷筋から尾根筋、そして岩場を空身で登り剱岳山頂に立った
- どの:早月尾根ルート 立山川ハゲマンザイルート
- どこに:錫杖頭、鉄剣を山頂磐座の岩窟に奉納した
- なぜ:国家鎮護と堀江荘発展のため
いつ・誰が・なぜという点については伝承頼りとならざるを得ませんが、登頂ルートについては、実地に何度も登頂しながらの検討の結果、当初候補に上がっていた岩峅寺・芦峅寺を起点とする立山信仰の延長線上に位置する別山尾根の線は早々に打ち切って、現在まで残されている地名の数々を手掛かりに早月尾根の南を流れる立山川の途中から早月尾根の標高1,921m三角点近くに乗り上がって尾根通しに山頂に達したのだろうと推察しています。
推察に推察を重ねた上での結論づけとなっており、厳密な意味での証明にまでは至っていないと思われるので、アカデミックな論稿を期待して本書を手にとると肩すかしをくらいますが、著者の謎解き紀行と割り切って読む分には、数次にわたるフィールドワークや数多くの参考文献への目配りなどの至極真面目な取組み姿勢に好感がもて、面白く読み通すことができました。
本題の謎解きの部分はさておいて、本書の記述の中で「へ〜」と思ったところをピックアップすると、例えばこんな感じです。
- 江戸時代に剱岳に登った者(「登頂」かどうかは本書の記述では不明)の記録がある。
- それどころか、柴崎隊の登頂の前年に立山川上流の毛勝谷から早月尾根に上がって剱岳に登頂した者の記録がある。
- 立山川沿いのルートは室堂乗越を越えて室堂に通じており、江戸時代には地獄谷から運ばれた硫黄を馬場島で精錬していた。
これまで剱岳については関わりが浅く、よって私にとってはこれらの点は新知見だったのですが、富山県在住の人にとっては周知の事実なのかな?
なお私自身は、剱岳にこれまで7回登頂しています。
- 別山尾根から(1989年)
- 八ツ峰主稜から(2007年)
- 源次郎尾根から(2007年)
- 小窓尾根〜チンネを経て(2008年)
- 八ツ峰と剱尾根の登攀を終えて(2012年)
- 源次郎尾根から(2014年)
- 本峰南壁A2から(2014年)
この写真は、最後の登頂を果たした2014年にテントサイトから撮った夕方の剱岳の姿です。こうしてみるとやはり立派。そして立山曼荼羅の中で「針の山」とされたのも肯けます。また、昨年のゴールデンウィークには残雪の赤谷尾根からの登頂を目指したもののあえなく敗退していることもあり、できることなら来年は8回目の剱岳登頂を果たしたいものです。