塾長の備忘録

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私=juqchoの日常の雑感を不定期に綴る、個人的な備忘録。

神々

2022/07/15

先週『アルピニスト』を観た渋谷シネクイントにて、今週は『神々の山嶺いただき』。あらゆる面で称賛に値するアニメーションでした。監督はパトリック・インバート、原題は『Le Sommet des Dieux』、すなわちフランス・ルクセンブルクの映画ですが、私が見たのは日本語吹替版です。

私は夢枕獏の原作ではなく谷口ジローの漫画版しか読んでいないので、これを「原作」ととらえて映画館に足を運びましたが、それにしても漫画で5巻にもなる「原作」をどうやって90分にまとめるのかと思っていたら、すばらしく手際のよい脚本が弛むことも飛躍することもなくストーリーを最初から最後までつなげてくれていました。

さすがに、羽生・深町という二人の主人公が取り憑かれるように山に向かった動機を描き切れていたかというと若干の物足りなさを覚えますが、そこを乗り越えてしまえば一気呵成という感じ。とりわけ前半は時系列を何度も行き来するのに、まったく不自然さも説明不足も感じさせません。

「原作」から取り除かれたエピソードもいくつかありますが、その最大のものは、羽生がエベレスト南西壁を登って風雪の中に消えた後に、「原作」では深町が自らの意思で別ルートからエベレスト登頂を果たしてその帰路に羽生の遺体を発見し、そこでジョージ・マロリー登頂の証拠となるフィルムを獲得していたのに対し、この映画では深町は羽生の生還を諦めて下山する際にアン・ツェリンから遺書がわりのメモと共にマロリーのカメラを託され、そして深町の心の中の映像として羽生がエベレスト山頂を目指して登り続ける姿が映し出されていたことです。

この最後のエピソードの削除には正直驚きましたが、映画としては確かにこの方がすっきりと、かつ余韻深く味わえます。そしてプログラムの解説(藤津亮太氏)はこの点を、「原作」では羽生の死後にその狂気を深町の中に宿らせたのに対し、映画では頂きに向かって歩き続ける人間とそれを見つめる人間との対比を明確にして、羽生は深町の中で今も歩き続けているとしたのだろうと説明していました。

アニメーションとしての出来も完璧で、山岳場面はひとつひとつのシーンが独立した絵画のように美しいものです。この記事では以下にプログラムに収載されていた絵をいくつかキャプチャして引用していますが、雰囲気は十分に伝わることでしょう。山岳場面だけでなく、都市を舞台としている場面も緻密に描かれており、東京の喧騒やカトマンズの猥雑さが見事に活写されています。日本の山岳風景が雄大過ぎたり(笑)、屏風岩にあそこまで立派なルーフはないよなと思えるハングが登場したりと、エンターテインメントとしての誇張がなくもないですが、一方でフランス映画なのに東京を映す場面では細部に至るまで的確な日本語(たとえば看板や雑誌の表紙など)が書かれているリアルさに感心もしました。

これが問題の屏風岩のシーン。屏風岩には何度か登っています(直近の登攀は2020年の東壁東稜)が、私が手をつけられていない青白ハングにしてもここまでではないような気がします。それにリードしている羽生がロープコイルを肩に掛けているのも、不思議と言えば不思議です。

これは3人きりでのひっそりとしたプジャの場面。それでも私が実際に体験した2018年のプジャを思い出させます。

登攀場面においては特にギアに関して描写の簡略化も見られます。ことにつるっとしたストレートシャフトのピッケルでのピオレトラクションは、実際に行ったらつらいだろうなと思わせる行為。本当にこの角度の氷壁を登るとすると、劇中の時代設定ならリーシュを使う方が自然ですし、実は「原作」ではリーシュが描かれています。

逆に、ほんのちょっとしたことで作り手のこだわりを感じるところも多々あります。たとえば深町がクレバスを飛び越えるために助走をつけようと下がったときピッケルでアイゼンを軽く叩いて雪を落としていたり、雪崩に追われた深町が岩陰に飛び込んでそこに雪がなだれ込んでくる場面で深町を捉える画面が、一瞬の時間差ですが(あたかもそこにカメラがあるように)下から埋もれていっていたり、横殴りの風雪の場面にも奥行きがあって手前を吹き抜ける雪が大きく焦点をぼかしてあったり。

さらに吹替版の声優(深町:堀内賢雄 / 羽生:大塚明夫)と格調高い劇中音楽も見事で、まさに総合力の映画だと言ってよさそうです。

なお「原作」ではマロリーが登頂を成し遂げていたかどうかについて明確な結論を出していた(回収されたフィルムを現像した写真が描かれていた)のですが、本作では深町の自宅の暗室に吊り下げられた写真の裏面をちらっと見せるだけではっきりと答を述べてはいません(ただし、よく見ると何が映っているかわかります)。

先日紹介した『アルピニスト』とハシゴしてこの映画を見る人も多いようですが、味わいがまるで違うので、日を変えてそれぞれ映画館に足を運ぶことをお勧めします。