神山

2024/09/29

今年の2月に『かながわ山岳誌』(山と溪谷社)を紹介しました。それから半年あまりがたったこの日、本書をまとめた日本山岳会神奈川支部が学術講演会「かながわの山を知る」を開催したので、横浜のかながわ県民センターへ足を運んできました。

あらかじめ伝えられていた講演内容は上掲の通りです。この日予定されている3つのテーマはいずれも興味深いものですが、ちょっと詰め込み過ぎなのでは?という懸念もあり、そしてその懸念は現実のものとなりました。

とりあえず、この日の三つの講演の主題と登壇者によるイントロダクション(小文字)、そして備忘として講演会場でのメモ(箇条書き)を以下に記してみます。


「神奈川の山の生い立ち」平田大二(神奈川県立生命の星・地球博物館元館長)
「山」とはなんだろうか?国土地理院では山の定義はしていないが、辞典等からの引用として、山というのは周りに比べて地面が盛り上がって高くなっているところと紹介している。地形や地質に詳しいタモリさんではないが、坂があれば山があることになる。では、なぜ周囲よりも高くなるのだろうか。大地が地殻変動により隆起する、また火山活動により火山噴出物が積み重なれば高くなる。神奈川の山々も、そのような大地の営みで出来上がってきたものである。当たり前のように思われがちだが、山が、いつ、どのようにしてできたのかを確かめるのは実は簡単ではない。山の正体と歴史を解き明かす学問の一分野が、地質学であり地球科学である。
  • そもそも山とは何か。平均海面から最も高いのはエベレストだが地球の中心から一番遠いのはチンボラソ(エクアドル)であり、基盤からの標高差ではマウナケア(ハワイ)。次に、なぜ山ができるのか。それは大地の隆起と侵食作用によるが、隆起原因である断層、造山活動、火山活動はすべて地球の表層の動き=プレートテクトニクスに基づく。
  • 神奈川の山の生い立ちはそれぞれに違う。1億年前に形成された小仏層群と3千年前の相模湖層群は海溝に溜まった泥や砂が海洋プレートの動きに伴い付加体となって隆起したもの(日本の南岸に長く分布する四万十帯の一部)。一方、丹沢山地では1700-600万年前の火山活動に伴う凝灰岩や深成岩、変成岩、枕状溶岩で形成されるが、1500万年前頃のサンゴ礁に由来する石灰岩も見つかっている。大磯・三浦半島は1700-500万年前の堆積岩で、多摩丘陵は100万年前の泥砂が浅い海に堆積したもの。そして仕上げの箱根火山は40万年前から噴火が始まり、23万年前に大爆発して関東ローム層を作った後の13万年前にカルデラとなり、8万年前に火砕流噴火を起こして東京軽石層を形成し、6万年前以降中央火口丘が活動している。ちなみに神山が山体崩壊を起こして生まれたのが仙石原である。
  • 相模湾の中にも沖ノ山堆列というフィリピンプレートの動きにより持ち上げられた地形があるが、こうした動きは今後も継続して伊豆諸島の島々が北進すると共に伊豆半島は高さを増しているだろう。

「植物から見た丹沢、箱根、小仏山地」勝山輝男(生命の星・地球博物館元学芸部長)
丹沢、箱根、富士山、伊豆にかけての地域は、サンショウバラ、ハコネコメツツジ、フジアザミなど、この地域に分布が限られた植物が数多くある。これらは、岩場、風衝地、崩壊地、林縁などに生えるものが多い。植物の種類相からみた県西の山地の特色を紹介する。1990年頃から丹沢ではニホンジカの採食圧により林床植物が衰退した。最近は、箱根や小仏山地でもニホンジカが増加しつつある。また、塔ヶ岳から蛭ヶ岳の稜線はかつてはうっそうとした樹林に被われていたが、オゾンなどの大気汚染の影響でブナが枯れ、どこも眺めの良い稜線になってしまった。植物から見た県西山地の異変についても考えたい。
  • 丹沢・箱根・小仏は隣接しているがそれぞれ特徴が異なる。丹沢は標高が高く、侵食を受けて急峻な地形をしており、二万五千図で7枚分(屋久島サイズ)の広さを持つのに対し、箱根は火山らしいなだらかな地形の中に湖と湿原を持ち、広さは二万五千図3枚分。そして小仏山地は低山地で二万五千図1枚分しかない。こうした特徴(環境)の違いに応じて、植物も違ってくる。
  • 中部日本の森林植生は、1600m以上がシラビソ帯、800〜1600mがブナ帯、800m以下がシイ・カシ帯となる。これを神奈川県に当てはめると丹沢がぎりぎり1600mでブナが分布するが、箱根はブナが少なく小仏にもほとんど存在しない。

(この後しばらく、丹沢・箱根・小仏の植生と植物相の特徴を超駆け足で紹介)

  • 日本全体を見渡すと「固有種」は本州中部以西、そして太平洋側に多いが、丹沢にしかない固有種(サガミジョウロウホトトギス)も存在する。固有種の分布を仔細に見ると、マメザクラ、サンショウバラなどフォッサマグマ要素の植物は丹沢と箱根に分布し、一方、襲速紀ソハヤキ要素の植物は南回りで分布を広げて箱根まで届いているものの丹沢には達しておらず、逆にシモバシラなどは道志・小仏から丹沢に及んでいても箱根には存在しない。
  • 昭和19年の登山ガイドブックを見ると丹沢の表尾根は草原になっているが、今では植林の影響により樹林に覆われていて、草原の減少に伴い消えた植物もある。またシカの採食圧による森林の衰退も生じ、蛭ヶ岳周辺のブナ林もオゾン障害によって枯れてしまった。しかし保護柵の設置とシカの捕獲によって林床が再生し、希少種も復活しつつある。ブナのような高木を復活させるには長い時間を要するが、まずは低木林の回復から始めて徐々に元の山の姿が戻ることを期待したい。

「相模の山岳信仰と修験道」鈴木正崇(慶應義塾大学名誉教授、日本山岳修験学会会長)
相模の人々にとって最も身近な信仰の山は秀麗な山容の大山で雨乞いで知られていた。かつては沢山の登拝講があって賑わい、浮世絵や名所図会に描かれて親しまれてきた。近年は日本遺産に登録され信仰習俗も一部復活している。相模には中世に遡る修験道の中心地があった。大山の北東にあって修験集落を山麓に形成した八菅山である。大山までの峯入り修行を明治5年まで継続してきた。山北では秋には踊りと歌を山上の神明社に奉納するお峯入りの祭りが行われ、修験道儀礼の芸能化とも言える。2022年にユネスコ無形文化遺産「風流踊」に登録された。伊豆・箱根も山岳信仰の中心地で、源氏の深い帰依を受けてきた。多様な展開を見せる相模の山岳信仰と修験道について検討を加えてみたい。

(前の二人の講演で時間が押したためか、鈴木先生の講演はウルトラ駆け足になってしまいました。用意されたスライドショーをどんどん飛ばしながら大山信仰の解説がまず行われ、その中核である磐座信仰、雨降山=水神・豊神としての性格、海上からの山あて(目印)でもあったこと、大山寺の開山伝承(良弁)、江戸期に山から下された修験が御師となり大山は修行の山から登拝する山に変じ、江戸の男子は15歳になったら通過儀礼として大山に詣でたこと、大山道の整備と奉納木太刀の由来などが説明されました)

(さらに、一層はしょりながら丹沢の修験(尊仏岩)、八菅山の熊野信仰、山北のお峰入り、大雄山と秋葉山に触れて説明が終わりましたが、こうした鈴木先生の解説および質疑応答を通じて自分にとっての新知見となったのは、大山山頂の磐座(石尊)は今でも存在するが秘されていて見ることはできないという点でした)

今回の講演会での3テーマのうち、自分の関心は「神奈川の山の生い立ち」と「相模の山岳信仰と修験道」にあったのですが、前者は以前学習した内容を大きく越えるものではなく、後者もまた駆け足すぎて一昨年の東丹沢周回の際に得た知見を塗り替えるものではありませんでした。そもそも今日の3人の講師は冒頭に紹介した『かながわ山岳誌』の中でそれぞれの主題の執筆者であり、今日の講義内容もそこに書かれたことを拡張するものにはほとんどなっていなかったようです。それでも、同書の内容の復習になったという点で有意義ではありました。

……が、そう思ったのは私だけ?他の聴講者は、この講演会を通じて見識を深めることができたのかな?

この講演会にはFacebookでつながっている丹沢愛好家も数名参加していたので、講演終了後に近くの居酒屋で軽く一杯。ここで上記の疑問をぶつけてみればよかったのですが、今月8日の沢登りで負傷してからカルシウムの吸収を妨げるアルコールの摂取を自粛していたためにこれが3週間ぶりのお酒で、それがうれしかったために飲む方に気を取られ、皆さんの講演に対する感想を聞きそこねてしまいました。