道程
2025/04/02
国立科学博物館(上野)で「特別展 古代DNA ―日本人のきた道―」を見てきました。この展覧会の開催趣旨は、公式サイトから引用すると次のとおりです。
遺跡から発掘された古代の人々の骨に残るごく僅かなDNAを解読し、人類の足跡をたどる古代DNA研究。
近年では技術の発展とともに飛躍的な進化を遂げ、ホモ・サピエンスの歩んできた道のりが従来想像されていたよりもはるかに複雑であったことが分かってきました。
本展では、日本各地の古人骨や考古資料、高精細の古人頭骨CG映像などによって、最新の研究で見えてきた遥かなる日本人のきた道と、集団の歴史が語る未来へのメッセージを伝えます。
こういうルーツものの話は昔から好きで、たとえば篠田謙一氏(現・国立科学博物館館長)の著書『日本人になった祖先たち』(2007年)にはずいぶんインスパイアされたものですが、本書が執筆される直前の2006年に次世代型シークエンサーという読取り装置が生まれ、それまでのミトコンドリアDNAだけでなく核DNAを読めるようになったことがこの分野を飛躍的に進展させたことがこの展覧会の中でも強調されており、そのおかげでこの日の上野参りは自分の知識をアップデートするよい機会になりました。
以下、自分のための備忘を兼ねて展覧会の様子とそこで示された知見を記述します。なお、以下の記述のうち引用部分は図録に基づくものです。
展示の構成は上図の通り、メイン会場を使って旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代と時系列に沿って展示が進み、トピックとしてイヌとネコに言及してから、琉球列島と北海道の特徴を見て、最後に第2会場でエピローグ的に中世以降の日本人の形質変化を紹介しています。
まず、2010年にネアンデルタール人のDNA分析によりネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの間に交雑があったことを明らかにして2022年にノーベル生理学・医学賞を受賞したスバンテ・ペーボ教授のプロローグムービーがあり、ついで、いわゆるグレートジャーニーの図が展示されていました。そこには6万年前に出アフリカを果たした人類が遥かなる道程を辿って世界に拡散する様子が描かれており、赤い線は初期拡散(6万年前〜2万年前)、黄色い線は南北アメリカ大陸への拡散、青い線は南太平洋への拡散(6000年前〜1000年前)です。そして、この中で日本への人類の到達は4万年前とされています。
- 第1章 最初の日本人 ―ゲノムから見た旧石器時代の人々
- 冒頭に紹介したペーボ博士が日本の研究者と共に調査を行っているのが、このコーナーで説明される沖縄県の白保竿根田原洞穴遺跡の出土人骨です。この遺跡は今世紀に入ってから空港建設工事に伴う調査に発見された旧石器時代から16世紀にかけての複合遺跡で、そこで発見された人骨のうちの一体(4号人骨=下の写真)は約2万7000年前のものと推定され、全身骨格がほぼ残ったものとしては日本最古です。
そしてこの人骨のゲノム分析により、彼らは縄文人と共通の祖先を持ち、そのゲノムの一部は現代のフィリピン、台湾、日本に伝えられていることが明らかになっています。骨の向こう側には復元された顔の模型も展示されており、そのいきいきとした顔立ちは今でもどこにでもいそうな表情をしていますが、この男性の身長は160〜165cmと意外に高く、その外耳道には潜水作業のような生活の痕跡が残っているそうです。白保人骨の分析はまだ途上ということなので、今後の研究成果が楽しみに待たれます。
- 第2章 日本の基層集団 ―縄文時代の人と社会
- ここでは縄文文化を「土器が出現したおよそ1万6000年前から、東北地方北部に水田稲作技術が到達した2400年前まで」における狩猟・採集・漁労中心の文化としており、その担い手を縄文人としています。
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- ここから各章において「古代人の声を聴け」というコーナーがあり、出土した頭骨が一人語りで自分についての説明をしてくれていました。縄文の語り手は北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3600年前(縄文後期)の女性で、年齢は40歳以上、身長は146cm。顔の形は寸詰まりで頬が横に張っており、眼窩の形が四角く眉間が膨らんで全体に彫りの深い顔立ちをしています。礼文島には年間を通じて定住していたわけではなく海獣狩猟のための夏だけ訪れていたようですが、図録の解説が教えるところによれば彼らはデンプンをうまく消化できない遺伝子を持っており、そのため堅果類(どんぐりなど)を主食にできなかったのだそうです。
- 縄文人と言えばどんぐりやくるみというイメージなのでこれは意外でしたが、実は縄文人と一口に言ってもその起源は単一ではなく、ゲノムレベルでは白保のゲノムの6割を引き継ぐ一方で残りは沿海州の古人骨と類似することから、旧石器時代に
北方と南方から列島に到達した集団が、長い時間をかけて列島内部で混合し、地域差を保持しながら、他のどこにもいないユニークな集団として成立していったのだろう
と推測されています。この「地域差」の例として、海岸部の縄文人の食性は海産物に偏り、山間部の縄文人では堅果類や肉が中心であることも紹介されていましたが、船泊遺跡の女性の例はそれが生活様式のみならずDNAレベルでも異なっていたことを示して興味深いものでした。 - なお、彼女は虫歯で多くの歯を失っていましたが、先日展覧会で見たラムセス2世はじめ古代エジプトのファラオも少なからず重度の虫歯や歯周病を患っていたことを思い出し、歯医者もいない昔の人々にとっては歯の病は貴賤を問わず深刻な問題だったのだろうなと身につまされました(私もいま歯科医院に通っているところなので……)。
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- 縄文文化と言えばやはり土器に触れないわけにはいきません。左は呪術的な装飾を伴うもの、右は出産の様子を模したもので、その高いデザイン性には目を見張りましたが、同時に展示されていた石棒(男性の象徴)と土偶(女性の象徴)からは、男性と女性からなる世界観とそれらが交接することで生命が循環・再生するという死生観が窺えるのだそうです。
- 第3章 日本人の源流 ―さまざまな弥生人とその社会
- ここで「さまざまな弥生人」というのは、稲作を持ち込んだ渡来系弥生人とこれを受け止めた在来(縄文)系弥生人、そしてそのハイブリッドのことを指します。ここはちょっとわかりにくいところですが、「縄文人と弥生人(渡来人)が混在した」と考えるのではなく「縄文人の子孫も渡来人も共に弥生人と呼ぶ」ということなのでしょうか。ともあれ、日本に稲作が伝播した時期は今世紀の始めまでは紀元前5〜前4世紀だと考えられていましたが、2003年に国立歴史民俗博物館によるC14年代測定により紀元前10〜9世紀に遡ることが判明し、その結果、稲作が始まってから600年間はまだ鉄器を持たない石器時代であったこと、九州北部から日本各地への稲作伝播にはそれまで考えられていたよりも長い時間を要したこと、水田稲作を伝えた渡来人(朝鮮半島南部の青銅器文化人)の流入人口はそれまでの見積もりよりも少なかったことなどが想定されるようになったということです。
- 一人語りコーナーで語ってくれたのは、左の佐賀県大友遺跡から出土した在来(縄文)系弥生人の男性(紀元前7世紀)で、自分の顔かたちと右の福岡県横隈狐塚遺跡から出土した渡来系弥生人の女性(紀元前2世紀)の顔かたちの違い(女性の方は面長のっぺり、顔の幅が狭い、前歯が大きく眼窩が丸い)を説明してくれました。この説明は、現代日本人が基層集団である縄文人と弥生時代以降に入ってきた渡来人という二つの集団が混合して形成されたとする「二重構造モデル」を想起させ、この展覧会の図録に収録された解説も本州の現代人が縄文人由来のゲノムを10〜20%、渡来系弥生人のゲノムを80〜90%持つことからこの考え方を基本的に支持していますが、両者の混合は長い時間をかけて徐々に行われたために、その過程ではハイブリッドも含めた多様な弥生人が存在していたことを指摘しています。また同じ解説の中では、渡来系集団の源流は5000年ほど前の中国東北部西遼河流域の雑穀農耕民であると考えられていることも説明されていました。
- DNA分析が新たな知見をもたらす例の一つとして、倭国大乱期の交易拠点のひとつだったと考えられる鳥取県青谷上寺地遺跡もトピック的に紹介されていました。すなわち、ここで発掘された100体以上の人骨のうち32個体を分析したところ、それらの大半の間に血縁関係が認められず、このことを解説の執筆者は、出生地の異なる人々が奴隷としてこの地に供給され、他界すると集団埋葬されたのではないかと推測していました。なお、この遺跡で出土した頭骨に残っていた国内最古の脳から採取したDNAを元に複顔された通称「青谷上寺朗あおやかみじろう」が自分の頭骨と共に鎮座していましたが、その顔は現代日本のどこにでもいそうな面立ちをしていました。
- この食性分析の図も、一連の展示の中で活躍していました。これは骨に含まれるコラーゲンの炭素13と窒素15の同位体比をもとに当時の人々が何を食べていたかをシミュレーションするもので、この図では弥生人の中でその立地によりコメへの依存度と海産物への依存度が異なることが示されています。なお、上述の山間部の縄文人と海岸部の縄文人の食性の違いもこの手法によって推測されたものです。
- 第4章 国家形成期の日本 ―古墳時代を生きた人々
- 従来、縄文人と渡来人との混血は弥生時代で完結すると考えられていましたが、そうではないというのがこの章のポイントです。
- ここでの一人語りは、広島県山ノ神遺跡から出土した20代の女性(古墳前期)。支配層に属する女性だったらしく死者送りの儀礼として赤い顔料がかけられていますが、彼女もまた下顎の右側に大きな虫歯をかかえていました(かわいそうに……)。彼女のゲノムは現代日本人と変わらず、これは山陽地方が九州と機内を結ぶ交通の要所であったことから多くの集団が往来し混合が進んだためと考えられるのに対し、列島の海岸部や周辺部に残された古墳時代の人骨が持つゲノムは縄文系の影響が強いものが多く、このことは古墳時代になっても在来集団との混合が完成していないことを示すそうです。ただし、それであれば
現代日本人の遺伝的な特徴は現在より縄文系に偏るはずだが、そうなっていないのは、古墳時代以降にも大陸からの渡来があった可能性を示唆している
ということです。 - なお、弥生時代と古墳時代とでは渡来人が異なる集団(前者は東北アジア / 後者は東アジア)であったという説がありますが、図録の解説はこの点については言及を控えています。
- 縄文が土器なら、弥生は埴輪。須恵器や製鉄技術と共に馬(飼育のためのインフラも含めて)も古墳時代になって渡来人により日本に導入された「新技術」です。
- こちらはゲノム解析がミクロな血縁関係を解き明かした事例。岡山県久米三成4号墳から出土した骨のゲノム解析から、4体の人骨のうち3体は父親(熟年)とその娘である異母姉妹(壮年・11歳)、残る1体は血縁関係のない女性(熟年)だと判明したそう。この時代は女性の寿命が男性より短く、このため再婚事例が多かったと考えられているのですが、ゲノム解析によって血縁関係の有無だけでなく親等数までわかるというのは考えてみるとすごいことです。
- トピック イヌのきた道 / イエネコの歴史
- 古墳時代を終えた後に、コラム的に設けられたコーナーはイヌとネコのDNA研究でした。
- イヌは東アジアで誕生し、東西ユーラシアに分かれた後に東アジアのイヌが大陸にいたニホンオオカミの祖先と交雑したために、東アジアのイヌはそのDNAを2〜5%持つことになりました。その後、1万年前に縄文人と一緒に渡来したこのイヌの集団は列島に隔離されたために、縄文時代のイヌはアジアで最も古いイヌでしたが、弥生時代に大陸から新しいグループが入ってきた結果、現代の日本犬に近い丸顔のイヌになったということです。
- 一方、イエネコは中東のリビアヤマネコを祖先とし、人間の交易を通じて各地に拡散していきましたが、現代日本のネコは平安時代以降に中国から持ち込まれたネコを祖先とする可能性が高いのだそうです。
- 第5章 南の島の人々―琉球列島集団の形成史
- 南の島々と本土との交流は、縄文後期・晩期の黒曜石貿易(九州→南島)、ついで弥生時代からの貝貿易(南島→九州)というかたちで7世紀まで1000年ほど続きました。黒曜石は鏃として、貝は祭祀用の腕輪として加工されるものです。このために北部九州と沖縄との間には西北九州沿岸〜薩摩半島〜奄美群島を介する交易路が設置されており、生産者と消費者をつなぐ交易の担い手は西北九州の人々だったそうです。
- ここでの一人語りは徳之島の面縄第一貝塚に残されていた高齢の女性(2800年前)。ゲノムは縄文人そのものですが、頭の形を上から見ると丸く、いわゆる団子鼻で、眼窩も上下に狭いというように他の地域の縄文人とは異なる特徴を備えています。そして図録の解説によれば、琉球列島の縄文人には白保遺跡などから出土した旧石器時代の集団との直接の関係は示されておらず、1万年前に九州の系統から分岐した後に孤立していた集団に3000年前頃から本土の遺伝子が流入して現代の琉球列島の人々を形成していきますが、そこに残る縄文系の遺伝子は30%と本土集団よりも高く、本土集団の移入がそれほど大規模なものではなかったことを予想させるのだそうです。また
地理的に近い台湾からの遺伝子の流入は確認されていない
のは不思議なこと
としています。 - これは北部九州と沖縄との間を循環する貝交易の模式図。右側では南向きに壺や布や玉が運ばれ、左側では北向きにゴホウラやイモガイの殻およびその粗加工品が運ばれています。貝殻の加工は九州に到着してから行われていますが、運送の任に当たる西北九州人の中には仕事の途中で落命し、彼の地に葬られるケースもあったようです。合掌。
- 第6章 北の大地の人々 ―縄文人がアイヌになるまで
実は今回とりわけ興味を持っていたのはこの章でした。今年2月に道東に旅行した際に網走市内の博物館を訪れて、主にオホーツク文化についての知見を得ていたことがその背景です。
- ここでのポイントは、従来「二重構造モデル」において孤立した環境の中で成立したと考えられていたアイヌも、実際には
縄文人をベースとしながら、その後の歴史の中で、本土日本や沿海州の集団からの影響も受けつつ誕生した
という点です。 -
- 展示されている頭骨は、左から北海道縄文人(6000年前)、続縄文人(2000年前)、オホーツク文化人(1500年前)です。北海道縄文人は他の縄文人と著しい形態の違いはないものの、海棲大型動物に依存する食生活のために咀嚼力が強い顎の形をしているほか、高脂質食の代謝に有利な遺伝的変異があるそうです。次に続縄文人も縄文人に似て眉間が隆起し鼻が高く彫りが深い顔立ちですが、その人骨からはアムール川下流域の先住民族が持つミトコンドリアDNAの系統が検出されており、この時代に北方集団との関係があったことが示唆されています。一方、オホーツク文化人は顔が横に広く極めて平坦で、四肢の短さは寒冷地への適応を示しており、縄文人や続縄文人とは大きく異なりますが、ゲノム解析からは彼らもアイヌにDNAを伝えていることがわかっているのだそう。これらの多様なルーツを持つ北海道のアイヌ集団には、現代の本土日本人に10〜20%ほどしかない縄文人の遺伝子が70%近く伝わっており、最も縄文人に近い集団になっているということです。
展示はついで第2会場に移り、おまけ的に日本人の頭骨の形の変遷(中頭→長頭→短頭)や江戸時代の階層別の顔の形の違い(身分が高いほど細面)、時代ごとの身長の変遷(中世が最も低い)を示して終わりました。
たいへん面白い展覧会で、冒頭に記したようにこの領域における知識のアップデートにつながりました。ここで得られた認識をぎゅっと凝縮すると、次のようになりそうです。
- 「日本人」の基層をなす縄文人自体がもともと多様性を有していた。
- 縄文人と渡来人の混合は漸進的であり、その過程では混合の度合いに応じ多様な集団が存在した。
- その多様性は現代にまでつながっている。
この最後のポイントは重要で、図録のエピローグは現代の本土日本集団でも地域によって縄文人から受け継いでいるゲノムの割合が異なることを指摘し、弥生時代以降の混合の歴史はまだ終わっていないとした上で私たちは「日本人」という遺伝的に均一な集団が最初から存在するかのように考えがちだが、実際には、歴史の中で変化し続ける集団の遺伝的な構成を、大雑把に捉えて言葉にしているのである
と述べています。
近年、社会的「他者」に対する不寛容はことに先鋭化しているように思われますが、それだけに、この展覧会や関連図書を通じて「日本人」が昔も今も多様性を内包しており、しかもその源流が日本列島の外にあったことを学ぶことの価値は、ますます高まっているように思います。主催者の開催意図が奈辺にあるかはさておき、時宜にかなった展覧会だと言ってよいのではないでしょうか。




なお第2会場に向かう通路の途中には、DNA分析やC14分析法の解説がパネル展示されると共に、今後予定されている特別展のフライヤーが置かれていました。


氷河期!大絶滅!これはどちらも見逃すわけにはいきません。それにしても国立科学博物館のフライヤーのインパクトには恐れ入ります。攻めてるな〜。