飯田

Memo 1257 - 川本喜八郎人形美術館を訪れる

風薫る5月はもちろん登山にも向いていますが、旅行のシーズンとしても好適です。昨年は佐渡島に渡って佐渡金山の遺構を見て回りましたが、今年は前々から一度足を運んでみたかった長野県飯田市の川本喜八郎美術館を訪ねることにしました。

川本喜八郎氏の映像作品は学生時代に接した「道成寺」を皮切りにさまざま見て最高傑作「火宅」に至り、そのことが後に能楽鑑賞に踏み込むきっかけにもなったのですが、人形そのものをしっかり見る機会はこれまでほとんどなく、2019年の「特別展 三国志」の際にコラボ出演しているNHKの『人形劇 三国志』の登場人物たちを微笑ましく眺めたくらいだったので、いつかは聖地・飯田詣でをしなければと思っていたというわけです。

2026/05/16

新宿バスタからバスに乗って5時間弱(渋滞遅延あり)。伊那谷の中でも駒ヶ根あたりは木曽駒ヶ岳登山で何度か訪れていますが、さらに南の飯田市を訪れるのはこれが初めてです。到着したのは13時少し前だったので、まずは腹ごしらえにかかることにしました。

焼肉

ここに来るまで知りませんでしたが、飯田市名物は焼肉・りんご・人形劇なのだそうです(他にもあるかも)。よって、とにもかくにも焼肉店に向かいます。焼肉が名物と言うと昨年2月にアイスクライミング旅行の拠点とした北海道の北見市を思い出しますが、ここ飯田市が約肉の街になった由来については諸説あり。そしてお店ばかりでなく、家庭でも焼肉が盛んに食されるということです。そんな中、あらかじめ予約をとってあった人気店「徳山」の暖簾をくぐりました。

あまり焼肉の匂いをぷんぷんさせては人形たちに申し訳ないので、注文は控えめに牛タン・牛ロース・マトンの三品とライス・わかめスープ。タレは甘辛二種から選べるようになっており、野菜はあらかじめ用意された状態になっています。こじんまりとしてワイワイと賑やかな店内の雰囲気もまた飯田焼肉文化の一部なのだろうと思いつつ、おいしい焼肉に舌鼓を打ちました。

川本喜八郎人形美術館

今回の旅のメインイベントは、この川本喜八郎美術館です。

後掲のポスターが街中の至るところに掲げられ、道路の行き先表示板にも美術館への道筋が示されていて、この美術館が市をあげての支援を受けていることを実感しながらしばらく歩き、美術館の前に着きました。

エントランスで出迎えてくれたのは、他ならぬ諸葛亮孔明。現在の常設展のテーマは『人形劇 三国志』より「桃園の誓いから三顧の礼」なので三国志演義の登場人物が主役であることは当然ですが、それだけでなく、この孔明は川本喜八郎の人形の最高峰とされています。なお、背後の漢文は言うまでもなく「出師表」です。

ギャラリー(展示室)に入るとまずそこにいるのは、桃園に集う劉備・関羽・張飛の三人。青龍偃月刀を構える関羽と蛇矛を構える張飛がいずれも武人らしく赭顔であるのに対し、雌雄一対の剣を腰に提げた劉備の顔の白さがその高貴さを強調しています。

ついで、黄巾の乱から漢朝末期にかけての登場人物たちが並びます。『人形劇 三国志』は1982年から1984年にかけてNHKで放送され、登場人物は約400体。そのすべての頭を川本喜八郎が制作し、衣装や装飾品なども一つとして同じものはないのだそうです。

まさに壮観。私は高校生の頃に学校の図書館に通い込んで中国古典文学全集から『水滸伝』や『三国志演義』を熱心に読んでいたので、登場人物たちの大半には馴染みがありますが、中にはこの番組オリジナルのキャラクターもいたそうです。

たとえばそれは誰かと言うと、左の劉璋が睨みつけている先に並んでいる紳々と竜々。お笑いコンビ紳助竜介の二人に似せて作られ、実際に二人が声をあてました。この二人は登場人物としてだけでなく、ナレーションを担当したり劇中で登場人物にインタビューしたりとずいぶん活躍したそうです。なお『人形劇 三国志』は再放送の機会が少ないそうですが、その理由は(以下自粛)。

左は董卓と呂布、右は貂蝉。こうして見ると、キャラクターの性格ばかりかその運命までもが表情や仕草に表されていることがわかります。

テレビ放送の一場面を示すパネルによる、王允の「連環計」の解説。呂布の視線が貂蝉の美貌に釘付けで、王允の狙い通り、このことが後に呂布による董卓殺しに発展します。

人形は下からの一人遣いであるために軽さを重視して作られていて、本体は700g。しかし衣装を着せると重いものでは2kgになります。心棒には目・口・首が動く仕掛けが組み込まれており、顔は人形浄瑠璃のそれとは異なり表面に柔らかい皮が張ってあって、口を動かすと自然な皺が生まれるようになっているのだそう。なお、声と動きの同期はアフレコではなくプレレコなので、声の担当も操演担当も手探りの苦労があったということです。また、劉備・関羽・張飛の乗馬たちもいましたが、関羽の乗馬として有名な赤兎馬のたてがみと尻尾は、孔雀の羽を染めたものを用いてボリュームを出していました。

「三顧の礼」を尽くす劉備の訪問を受ける孔明。川本喜八郎はこの孔明の顔づくりに苦労し、四体目にしてようやく人形から「我は諸葛亮孔明なり」という声が聞こえたという話が伝わっています。

曹操と孫堅。特に曹操の面構えには、正邪を超越した風格が感じられます。こうした力強い人物を造形するためには、作者が自分の心の中に同等の力強さを養っていなければならなかったはずです。

片隅には、人形アニメーションの登場人物たちも展示されていました。見切れている左端は『花折り』、ついで『道成寺』と『不射之射』です。人がリアルタイムで演技する人形劇とは異なり、これらの人形はストップモーションアニメとして動かされるので『人形劇 三国志』の人形たちと比べるとかなり小ぶりですが、特に『道成寺』の清姫の髪のダイナミックな表現は大きな感情のうねりを表しています。

ギャラリーを出ると、ホワイエに置かれたケース内には人形の体の作り方や衣装・小道具が展示されていました。

特に目を引いたのは、この緻密なデザインの衣装です。左の小袖、袿、緋大口、桧扇は女性のもの。右の透烏帽子、鎧直垂、袴、籠手、熊毛の貫は平重衡だと書かれていました。

スタジオでの企画展示は『平家物語』から「出家した者たち 祈りと苦悩」とあり、その中心に据えられていたのは白拍子姿と出家後の姿の二体の祇王でした。白拍子の祇王は、かすかに眉根を寄せた表情の中にすでに愁いを秘めつつ、同時に意志の強さも感じさせます。

平清盛と後白河法皇は、法体とは言っても漲る権勢欲が袈裟の下から溢れ出すよう。さらに歌舞伎でおなじみの姿によく似た俊寛と、それぞれに名札を見なくても一目でわかる西行と文覚をもって終了です。

『人形劇 三国志』と『平家物語』のいずれをとっても、人間の心理に対する深い洞察が造形に反映された人形たちの数々がすばらしく、はるばる飯田まで足を運んだ甲斐があったと言えそうなほどに面白く興味深い展示でした。

メインイベントは終わりましたが、さすがにこれだけのために東京・飯田間を往復するというわけにはいかないので、この日は市内の宿に泊まりのんびり過ごすことにしています。

伊那盆地の天竜川西岸の基本的な地形は、盆地の中を貫通する天竜川が北北東から南南西に流下し、そのところどころでこれと並行する木曽山脈からの川筋が河岸段丘を横切って天竜川に流れ込むというもので、飯田周辺ではそうした支流である松川とそこに斜めに流れ込む野底川とが作る岬のような地形の先端に飯田城がありました。上述の川本喜八郎人形美術館は飯田駅から天竜川方向に緩やかに下った途中にあるのですが、さらに道を天竜川に向かって(つまり「岬」の先端に向かって)歩くと飯田城の遺構である桜丸御門(赤門)があり、引き続き本丸があったあたりにある長姫神社の鳥居をくぐって、その先が今宵の宿となる「三宜亭本館」です。

東に向かって眺めの良い部屋、豊富な湯量のアルカリ泉、そして美味極まりない食事とお酒。贅沢三昧の一夜を過ごしました。たまにはこういうのもいいでしょう。

2026/05/17

せっかく飯田市に来たので、今日は近隣の観光スポットを二つ巡ります。

元善光寺

まずは飯田駅から列車で移動して、いかにも鄙びた作りの元善光寺駅から徒歩10分の元善光寺。一度詣れよ元善光寺 善光寺だけでは片詣りというのがこのお寺のキャッチフレーズです。

寺の縁起によれば、元善光寺は推古天皇10年に信州麻績の里(飯田市座光寺)の人・本多善光によって開かれた寺。お釈迦さまの在世当時に天竺に出現した一光三尊阿弥陀如来が欽明天皇の御代に百済から本朝に渡ったものの、物部氏によって難波の堀に沈められてしまったものを、後に都に上っていた本多善光が見出して故郷にお連れし、浄めた臼の上に安置したのが当山の起源とのことです。この尊像は皇極天皇二年に芋井の里(長野)に遷されて善光寺となり、一方、その際に「毎月半ば十五日間は麻績の古里に帰り来」るという誓願が残されたことに伴い本多善光が御本尊と同じ一光三尊仏を彫って祀ったので、こちらは元善光寺と呼ばれるようになったわけです。

幸いなことにこの日は天気に恵まれ、境内のこじんまりとしていながら明るい雰囲気に浸ることができました。

学業成就・良縁成就に御利益のある松(どちらももう必要ありませんが)を眺め、宝物殿のPRを目に止めてから、本堂にお参りします。

燃えるにつれて文字が浮かび上がるお線香を供えてから、お戒壇廻りに向かいます。長野の善光寺には2013年にお参りしたことがありますが、そのときと同じく真っ暗な中を手すりを頼りに地下の回廊を辿り、御本尊の真下にある「開運の錠前」を無事に見つけて御本尊との御縁を結ぶことができました。

御本尊は七年に一度の御開帳のとき(次は来年)しか拝むことができませんが、宝物殿(有料・撮影不可)には最初に御本尊を安置したという座光の臼、涅槃像、薬師三尊像、それにこれでもかと言うぐらいの地獄絵図などが展示され、さらに奥の平和殿では西国三十三観音霊場のお砂踏み参拝を行い、最後にそのネーミングからして霊験あらたかそうな「一粒万倍御守」をいただいて、穏やかな気持ちで元善光寺を後にしました。

天竜峡

最後はミーハーに天竜ライン下りです。元善光寺駅から列車に乗って40分ほど下流の天竜峡駅で降り、まずは姑射橋から川を見下ろしました。

この明るいグリーンの色は、川の水に花崗岩の砂が溶け込んでいることで生まれているそうですが、実はこれでは水位不足で予定通りのコース(天竜峡から唐笠まで)を下ることができず、途中まで下ってから引き返すコース設定になっていました。

この日は四便が出ており、自分が乗った舟には客が16名、先頭に船頭さん、後方にエンジン操作兼解説さんの合計18名が乗りました。橋の上から見下ろしたときには緩やかな流れに見えた天竜川も、川岸に降りてみると意外な流れの速さに驚きましたが、漕ぎ出してみれば舟はほとんど揺れることなく滑るように川面を下流へと向かいました。

本来の水位であればもっとスピーディーに航行するので見どころ解説は端折り気味に行われるのだそうですが、今日はあの岩この岩を船頭さんが竿で指し、解説さんがその由来を丁寧に説明してくれています。中には「そのネーミングはこじつけでは?」と思うものもなくはなかったのですが、由緒正しき天竜峡十勝の中でも最大の見どころである龍角峯はその岩の大きさといいそこに彫られた「龍角峯」の文字といい、確かに見応えがあるものでした。

つつじ橋をくぐった先の左岸の砂浜にいったん係留。その先(下流)には天龍峡大橋が見えているのですが、橋脚周辺は今日の低い水位では危険だということで川下りはここまでです。その代わり(?)に船頭さんが売店船に乗り移って飲料販売を行ったり天竜川にまつわる歌を歌ってくれたりしたのですが、誰も飲料を買ってあげようとしないので見かねた私はサイダーを1本注文しました。さらに船頭さんによる投網ショーも場所を変えながら合計4投行われたのですが、網の広がり方は見事ではあったものの釣果はさっぱりで、投げた網をたぐった後に「捕れません」というところまでがセットになっているのではないかと思ってしまうほど。解説さんの説明によれば、昔はこの川でたくさん捕れた魚も近年はいろいろな理由ですっかり数が減ってしまい、釣り人の姿も見られなくなっているのだそうです。

さてと、ここからはエンジンの力を使って上流へ戻ります。

こんな具合にハーフサイズの川下りで終わってしまいましたが、川に溶け込んだ砂がもたらす浸食作用が形作る天竜峡の景観は変化に富んでおり、これだけでもなかなか面白いものでした。

元の船着場に戻って救命胴衣を返却したら天竜ライン下りは終了ですが、飯田駅へ戻る列車の時刻まであと1時間以上もあったので、周辺の遊歩道をゆるゆると歩くことにしました。こちらの見どころは、先ほどその下をくぐったつつじ橋の上から眺める渓谷の上流と下流の眺めです。

また、対岸から見る龍角峯の姿もきわめて立派。これらに十分満足した上で、駅のベンチでのんびり休んでから天竜峡駅を発つ列車に乗りました。

最後に飯田駅前で軽く夕食をとってから、高速バスで新宿へと戻ります。バスの車窓からは、東に南アルプスの山並みが夕焼け色に染まっている様子を眺めることができました。


新宿に戻り着いたのは22時過ぎでしたが、二日間を過ごした飯田近辺ののどかな雰囲気からいきなり新宿の「超」がつくほどの雑踏に放り出されて、十分に慣れているはずのその猥雑さに違和感を覚えている自分に気がつきました。川本喜八郎の「」のラストシーンでも、主人公は奇怪な旅を終えて東京の雑踏の中に消えていきましたが、彼女が旅を通じて感じ続けていたはずの緊張感と今回の旅で味わった開放感とではベクトルが180°違います。しかし、結局は同じところに戻って来ざるを得ないという結末の共通性には、不可思議な因縁のようなものを感じてしまいました。