宿願

自分の40年以上に及ぶ登山歴の中には「恩人」と呼べる山仲間が何人かいますが、南アルプスや北海道の山を一緒に登ったカト氏もその一人です。彼はもともと私の最初の勤務先での同僚で、山登りを始めて日が浅くまだ大きな山を知らなかった私に南アルプスの縦走を手ほどきしてくれた、つまりはハイキングから登山への橋渡しをしてくれた人物ですが、1989年に北海道に移住してからは私の何度かの渡道にもつきあってくれて、私が比較的早く日本百名山を登り終えられたのも彼の助力あってのことでした。そんな彼の訃報に接したのは2015年のことで、その顛末は〔こちら〕に書いたとおりですが、以来ずっと「いつかは彼の遺影に手を合わせに行きたい」と願いながら奥様のヒデミさんとの年始の挨拶を重ねてきていました。

そんな中、沢登り仲間であるヅカ氏が私と彼との共通の友人で道北・浜頓別在住のノダ氏を頼ってこの夏にクワウンナイ遡行を計画していることを知り、厚かましいとは思いつつもその計画に便乗させてもらって、その山旅の後半でカト氏のお宅を訪ねることにしました。つまり(ヅカ氏やノダ氏にはいささか恐縮ながら)カト氏宅訪問がメインで沢登りはその「きっかけ」というのが、私にとっての今回の北海道旅行のコンセプトです。

2024/07/18

旅の始まりは成田空港から。この日は純粋に移動日で、沢装備と泊まり装備を詰めた75リットルリュックサックと共にJetstarでの1時間あまりのフライトで新千歳空港に降り立ちました。当初の計画ではここから天人峡温泉を目指し、翌朝早くからクワウンナイの遡行を開始するつもりだったのですが、折悪しく翌19日のトムラウシ周辺が雨予報になっており、増水を懸念して最初の夜はノダ氏のお宅に泊めていただくことになっています。

空港内のフードコートのラーメン店へ閉店間際に滑り込んで味噌ラーメンをおいしく食してから、数時間後のヅカ氏到着を待ちつつしばしぼんやり。22時半にヅカ氏が到着したところで迎えに来てくださっていたノダ氏の車に乗り込みました。今回数日間行動を共にするヅカ氏とは今月始めに只見川で沢登りをしたばかりですが、ノダ氏の方も2月に層雲峡でアイスクライミングをご一緒した仲で、さらに言えばこの3人で2019年にはガンガラシバナを登っているといった具合にそれぞれ親しい仲。そうは言っても、なにしろ新千歳空港からノダ邸がある浜頓別まではやたらに遠く、この超長距離送迎には本当に恐縮してしまいます。かくして無事に山仲間ルーリーが待つノダ邸へ辿り着けたのは日付が変わった後の午前2時半でしたが、ここで白状すると、このノダ邸のことを私はなぜか「大草原の小さな家」風のレトロな作りなのだろうとイメージしていたのに、実際にはモダンかつゴージャスな作りだったのでびっくり。思い込みはいけないですね。

2024/07/19

この日はのんびり寛ぐ日。前夜ノダ邸に着いてから軽く寝酒をしたこともあって、起床は9時過ぎになりました。

ルーリーは飼い犬のセタを連れて外に出ており、我々はやんちゃな子猫チャペ(1歳未満)と貫禄ある老猫・姫(17歳)のバトルを横目に見ながら、今後の計画について意見交換をしました。上述のとおり今回の山行の主目標はクワウンナイで、それだけなら私は2006年に遡行したことがあり、ノダ氏も複数回遡行しているのですが、今回の山行に魅力を感じていたのはクワウンナイ遡行後にトムラウシに登頂してからワセダ沢を地獄谷に下って、さらに化雲沢またはスゲ沼沢を遡行して沼ノ原経由クチャンベツに下るという欲張りなプランである点にありました。しかし、トムラウシは西も東も広大な源流域を擁する地形であるために増水リスクは相当なものがあり、率直に言って私もノダ氏も及び腰。まだクワウンナイを遡行したことがないヅカ氏はたとえ短縮バージョンになったとしてもクワウンナイを遡行することにこだわっていました(いや、その気持ちはよくわかります)が、最終的にははるかにリスクが小さいと考えられる白老川上流の複数の短い沢をパチンコすることに決しました。

一応の方針決定後に近所をお散歩。1989年に廃線となった天北線の下頓別駅跡やその近くの下頓別八幡神社の鳥居に郷愁を感じつつしばし散策した後、ルーリーが戻ってきたところで宗谷岬方面への観光ドライブに出掛けることになりました。

北海道ならではの光景。見ようによってはシュールレアリスムの世界。

どこまでもまっすぐな道。海岸沿いのエサヌカ線。

ハマナスのピンクとハマボウフウの白を愛でつつ車を走らせ、猿払村で巽冷凍食品さんの工場にお邪魔して夜の宴会のためにケガニ2杯をゲットしてから、さらに北に向かって宗谷岬に到着。あいにくの雨模様になってきていましたが、それでも観光客の姿がちらほら見受けられる中、我々もそそくさと証拠写真……もとい、記念写真を撮りました。

定番「日本最北端の地の碑」。天気が良ければここから43kmほどの距離にある樺太を目視できるそう。なお、この場所の緯度は北緯45度31分22秒で、ほぼ同緯度の都市としてはイタリアのミラノがあるのだそうです。かたや東京は北緯35度ですから、毎度思うことながらヨーロッパが日本に比べていかに北にあるかがよくわかります。

樺太探検で有名な間宮林蔵の立像もありました。彼が実際にここに立ったことがあるかどうかは不明ですが、ここから稚内方向へ3kmの位置には間宮林蔵が樺太探検に出発した場所というのが残されているのだそうです。さらに小高いところには鶴の姿を模した高さ19.83mの「祈りの塔」があって、これは1983年の大韓航空機撃墜事件の遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願う趣旨で建てられたものです。このように意外に盛りだくさんな宗谷岬周辺のモニュメント群を見て回ってから、再び猿払町に向かいました。

ちょっと遅めの昼食は「さるふつまるごと館」でのホタテ丼。注文を受けて水槽から掬い上げたホタテを調理して丼に満載したもので、その豪勢さには目が点になりました。

浜頓別町営の温泉施設でのんびり風呂につかり、帰宅したらアイヌ犬セタに御挨拶。夜中にノダ邸に着いたときにも簡単に挨拶していたものの、あらためてしっかりと頭や背中を撫でてやるとセタも喜んでこちらの顔を舐め回してくれました。ルーリーのInstagramですでにおなじみだったセタではありますが、猟犬、しかもアイヌ犬なので獰猛な性格なのではないかと思っていたところ、実際のセタは愛嬌があってフレンドリーな犬でした。もっとも、これが鹿を追い始めれば本来の野生を全開にして獲物を追う強靭さを持ち合わせており、ノダ氏の言によれば彼には自我があるということですから、セタと付き合うためにはきちんとその犬格を尊重することが大切です。

夕食は今回直前で参加を見送らざるを得なかった山友・ブミ氏から贈られた日本酒に、猿払町で買ってきたケガニとカレイ、タコ、さらに一段落してからクマの肉。カーボンフリーかつ食物繊維フリーの野生味あふれるディナーを堪能した上で、夜10時前には就寝しました。

2024/07/20

山行初日、3時半に出発。ルーリーやセタ、それに猫たちとはここでお別れです。

延々と車を南下させていくうちに少しずつ空模様は良い方向に変わっていき、この期に及んでもクワウンナイを諦めきれないヅカ氏は(クワウンナイの入渓点がある)東川町の方もいい天気に違いない!と未練たらたらでしたが(笑)、たぶんこれは自分に諦めをつけさせるための彼なりのやり方だったのでしょう。

支笏湖の南岸から道道86号のホロホロ峠を越えて白老川上流にアプローチし、この日は「白老川三重ノ沢」と「白老川大星沢右股」の2本の沢を登りました。遡行中は天気に恵まれ、渓相も美しいナメややさしい滝とゴルジュとが次々に現れて楽しく、まずは充実した沢登りができました。

遡行を終えた後、この日の泊まり場となる徳舜瞥山麓キャンプ場に移動してテントを設営すると共に濡れ物を干してから、さほど遠くない伊達市北湯沢温泉町の温泉リゾート施設「森のソラニワ」で寛ぎ、しかる後にキャンプ場に戻りました。

まるで私のためにあるようなネーミングの日本酒「法螺吹」をいただきながら、朝方の移動の途中で買い込みクーラーボックスに詰めてあった食材を取り出してのんびりとBBQ。飲み食べ始めた頃には昼の青空だったものが徐々に夕焼け色に変わる頃には連日の運転で疲れているノダ氏が一足先にテントの中に消えて、やがて星が瞬き出してからヅカ氏と私もテントにもぐりこみました。

2024/07/21

夜は多少は冷えるかと思っていましたが、半袖短パンの軽装にもかかわらずシュラフを掛け布団代わりにするだけで寒さを感じることなくぐっすり眠ることができました。

そしてこの日の天気はあまり良くないという予報だったのに、4時に目を覚ましてみると朝焼け色の雲の上には青空が広がっていました。適当な時刻に起床して、この日の遡行の脱渓点を偵察かたがた道道86号を走り、白老町のセイコーマートで朝食と行動食を調達。私の朝食は北海道ならではの「ザンたれタマゴサンド」です。ちなみに昨日セブンイレブンで見掛けた「チョコミントサンドイッチ」もインパクト大で、最終的にこれはヅカ氏のご家族へのお土産になっていました。

この日遡行したのは「白老川350m右股」です。しかし、この沢そのものよりも落ち口の上から見下ろした白老滝の姿が威圧的で、当初予定には入っていなかったこの光景に接することができたのは幸運でした。

遡行を終えたらすっかり観光モード。まずは登別温泉に移動して、温泉銭湯「湯元さぎり湯」の熱〜い温泉につかってリフレッシュです。確かにここの湯はこれまで入ってきた温泉とは別格で、湯船に浸かっているとリフレッシュというよりリセットされるような感覚がありました。

さらに白老町の「スイコウ魚卵人ぎょらんちゅ」で活ホッキ貝をはじめとする食材を買い込んで、いったん今宵の宿となるポロトの森キャンプ場のバンガローに置いてから、すぐ近くにあるウポポイへ向かいました。

周知のとおりウポポイは「民族共生象徴空間」を謳うアイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点として2020年にオープンした施設です。私も開館当初からいつかは見に行きたいと思っていたのですが、しかし広大な敷地内の各種施設やそこで行われるイベントはとても半日で見学できるものではなく、我々は駆け足で国立アイヌ民族博物館と伝統的コタンの建物群を見て回るにとどまりました。それでも感じ取ることができたのは、生活のあらゆる場面で神(カムイ)と人(アイヌ)との交流を意識するその精神世界の豊かさと共に、江戸時代前期から始まる和人による搾取もさることながら明治期からの同化政策がアイヌの民族的アイデンティティーの脅威であり続けた歴史の重みです。

展示の中には、交易の対象だったアイヌが和人商人によって漁業労働者として徴用され酷使されたという史実の紹介もありましたが、これは白土三平『カムイ伝』の中で逃散した農民たちが商人・夢屋の手引きにより労働者として酷使されるというプロットを思い起こさせ、『カムイ伝』が構想の当初においてはシャクシャインの戦いへの主人公の参加を予定していた(つまり白土三平はアイヌ史を研究していた)ことを考え合わせると、何やら点と点とが線でつながるような気がします。

ただしウポポイの運営は必ずしも順調というわけではないようで、目標とする年間来場者数100万人に対し実績はその3割程度にとどまっているそうです。長らく北方民族文化に関心を持ってきた私にとってもこれは残念なことで、なんとか一人でも多くの人がこの施設に足を運び、リピーターになってほしいものだと思わずにはいられません。もちろん自分も!と言いたいところですが、いかんせん東京と白老町とでは距離がありすぎます……。

さて、バンガローに戻ったらノダ氏・ヅカ氏との最後の晩餐です。まずは買い求めたホッキ貝を醤油でいただき、各種刺身だのアラ汁だので満腹になりながら語らいあって、時間のたつのを忘れました。

2024/07/22

ノダ氏・ヅカ氏と別れる日。ヅカ氏のフライトは10時台なので朝食を苫小牧でとろうと向かったのは、海辺にある「マルトマ食堂」です。

営業時間が5時から14時までというのはもともと漁師飯の店だからかもしれませんが、店内には壁と言わず天井と言わず至るところにこの店を訪れた芸能人たちの色紙が貼られており、我々が店内に入った5時45分の時点でテーブルに向かっている人たちも、カウンターに座る若干名のジモティーらしき人たちを除けば明らかに観光客が大半でした。

このお店の売りはやはりホッキ貝(苫小牧はホッキ貝水揚げ日本一だとか)で、せっかく3人いるのだからとホッキ飯、ホッキカレー、生ホッキ丼を注文しシェアし合いました。確かに肉厚にして濃厚な旨味のホッキ貝は絶品でしたが、それよりも隣の席の客が注文したホタテ丼には仰天しました。丼めしの上に乗っているホタテの量は間違いなく我々が猿払町で食べたホタテ丼の倍はあり、ホタテ3に対してご飯1という割合だろうと思われます。次にこの食堂に来ることがあったら、そのときはぜひホタテ丼も注文してみたいものです。

こうして一連の予定を終了した我々は新千歳空港に向かい、そこでお別れとなりました。ノダさん、今回も何から何までありがとうございました。次はぜひ来年の冬に、アイスクライミングでご一緒しましょう。

ここからは一人旅となります。新千歳空港から長距離バス「とかちミルキーライナー」に乗って山間の道を東に向かい、やがて展望が開けたと思ったらそこは十勝平野で、彼方には日高山脈の山々が連なっていました。

帯広駅前に降り立ったのは13時過ぎですが、とにかく暑い!ここは本当に北海道なのか?と思うほど(摂氏34度)です。よって一刻も早く涼しい場所に退避したいところですが、予約してあるドミトリーのチェックインは16時以降なのでまずは駅構内の地下にある喫茶店に入り、アイスコーヒーを飲みながら写真を整理してGoogleフォトで共有して、ついでにここ数日で身についてしまった飽食癖を脱するためにこのお店の軽食をこの日の夕食とするとちょうどいい時刻。まだ熱が残っている駅前の通りをてくてくと歩いて、今宵の宿となるドミトリーへと向かいました。

2024/07/23

旅の最終日。あらかじめのヒデミさんの助言に従って時間貸しで手配してあるタクシーにドミトリーの前へ9時に来てもらって、ヒデミさんが住む中札内村を目指しました。ところで帯広から中札内村へ向かう道筋はかつて国鉄広尾線(1987年廃止)が通っていたところで、かつて一世を風靡した「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズの元になっている愛国駅と幸福駅の跡が残されています。よってこれは立ち寄らないわけにはいくまいと、タクシーを手配するときにそれらの駅跡に寄り道してから中札内を目指してほしいと依頼してありました。

愛国駅跡周辺には売店もなく、どことなく寂れた雰囲気が漂っていましたが、駅舎は交通記念館になっていて広尾線の歴史に関する展示やこの駅が現役だったときに使われていたであろう備品類が並べられ、さらに広尾線で活躍していた蒸気機関車(国鉄9600型)もレールの上に鎮座していて、真面目にこの路線の在りし日の姿を知りたいと思う向きには価値のある構成になっていました。なお駅名の「愛国」の由来はこの地を開拓した「愛国青年団」によるそうですから、本当は「愛の国」ではなく「国を愛する」ということになります。

一方、幸福駅の方にはいかにも観光地らしい土産物屋があって、そこでのキラーコンテンツは言うまでもなく「愛国→幸福」切符でした。この売店があることや広い駐車場が整備されていることもあって、愛国駅と比較すると幸福駅の方が全体に明るい雰囲気ですが、まあこれら二つの駅はセットなのでどちらか片方だけ訪問するというものでもなさそうな気がします。なお、こちらの駅名の由来は少々複雑で、もともと札内川を示すアイヌ語のサッナイ(乾く・川)に幸震の字を当てた(地震の古語は「ない」であることに基づく)のが音読みされて「こうしん」となり、ここに福井県人の入植者が多かったことから1字ずつをとって幸福という地名が生まれたのだそうです。

さて、いよいよこの旅の最後の、そして最大の目的地に向かうことになりました。タクシーの運転手さんは私が伝えた住所をもとに的確に目指すカト邸を見つけてくれて、玄関前の車止めに待ってもらって一人車を降りて呼び鈴を鳴らすと、18年前と同じ姿・同じ笑顔のヒデミさんが出迎えてくれました。

まずはここ数年の宿願となっていたカト氏の遺影との対面です。こじんまりとした一室が彼の魂が安らぐ部屋とされており、そこで手を合わせて心の中で再会の挨拶を行いました。ここはガンが再発して余命わずかとなった後に在宅療養を選択した彼が最後の日々を過ごした部屋だそうで、それだけに彼の魂魄が今でもここでヒデミさんを守ってくれているような気配が感じられます。亡くなったという連絡をヒデミさんからもらってからずいぶん時間がかかりましたが、やっと来ることができましたよ。

ついでカト氏とヒデミさんが丹精を込めて育ててきた庭の花々を拝見しました。カト氏が亡くなって以来9年間、この庭の世話はヒデミさんが一人で行ってきたのですが、これだけの広さと花の種類に対応することは大変だったことでしょう。しかし、見頃を少し過ぎているというヒデミさんの話にもかかわらずすてきなフラワーガーデンになっていて、ベリーが実をつけてもいました。

屋内に戻ってカト氏の蔵書なども見せてもらいましたが、ロフトになっている彼の書斎の入り口には懐かしいパネルが置かれていました。これはカト氏とヒデミさんが結婚したときに私がプレゼントしたもので、撮影場所は南アルプスの赤石岳、撮影日は1988年8月8日です。

その後、ヒデミさんお手製のチーズケーキをいただきながらしばらく談笑しましたが、見事に太い無垢の木の柱や梁に支えられた高い天井のおかげで開放的な広いリビングに、先ほどのカト氏の書斎やヒデミさんのピアノ室などが付属した立体的な間取り、そしてそこに設えられた彼の遺品であるたくさんのカメラや立派なオーディオセットといったあらゆるものが、カト氏の家作りに対するこだわりの深さを物語っています。しかしヒデミさんの語るところによれば、カト氏はこの地に移り住んでこれから悠々自適の田園生活を送ろうとした矢先に発病してしまい、彼の思いがこもったこの家に住んでいられたのはわずか数年だったそうです。その無念は察して余りあるものがありますが、こうしてヒデミさんがこの家と庭とを大切に維持してくれていることを知れば、彼の魂も生前の彼と変わらず穏やかでいられるに違いありません。

時間さえあればいつまででもヒデミさんと話し続けられたのですが、タクシーの借上げ時間は正午までという約束だったために、1時間ほどで名残惜しいカト邸を辞することになりました。ヒデミさん、どうかいつまでもお元気で。できることなら、いつの日にかまた会いましょう。

とかち帯広空港を飛び立って羽田空港へ向かうAIRDOの飛行機の機窓からは、どんより暗い雲の下に十勝平野と日高山脈の眺めが広がっていました。この景色を眺めているうちに、ふと、そのどこかに何かを忘れてきてしまったような気がしたのですが、飛行機はすぐに雲の上に出てしまい、北海道の大地を見下ろすことはもうできませんでした。

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