新訳

ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』の旧訳と新訳

2025/12/22

ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』は、初めて読んだ高校生の頃からずっと変わらぬ私の愛読書です。つまり、本書とはまるまる半世紀のつきあいということになります。ただ、このブログでは「断食の効用」や「ユング心理学」に関する記事の中で引き合いに出してきたものの、本書を正面から紹介することはしていませんでした。

まだ読んだことがない人のためにそのあらすじを記すと、主人公のシッダールタは紀元前6世紀頃のインドにバラモン階級の子として生まれ、真理の探求を志し家を出て沙門(サマナ)の道に入るものの、そこでは目指す境地に達することはできないと悟って己れの道を歩みだす……というところまでは日本人が一般に「釈迦」として知るゴータマ・シッダールタの逸話につながりますが、本作は釈迦の伝記というわけではありません(「ゴータマ」は主人公が仰ぎ見つつも袂を分かつ覚者=主人公とは別人として本書に登場します)。シッダールタは俗世の暮らしの中で高級娼婦カマーラ(訳によっては「カマラー」)を師として愛欲の道を究め、商売人として富を築き、やがて贅沢や賭博に溺れてすっかり堕落しまうものの、ある夜に見た夢をきっかけに自分を見つめ直して享楽的な生活を打ち捨て、川の畔で先達の渡し守を友として過ごしながら川の声に耳を傾け続けるうちに、聖なる言葉「オーム」を聞くことになります。

こうした主人公の魂の遍歴の物語は、ヘッセが自身の家庭崩壊やその反戦主義への社会的指弾に見舞われて心の平穏を失いユング派の精神分析に救いを求めた時期を経て1920-22年に執筆(1922年出版)されたもので、前作『デーミアン』(1919年出版)と共に、第一次世界大戦の惨禍を経たドイツやカウンターカルチャームーブメントの最中にあった1960年代のアメリカで熱心に受容され、現在でもヘッセの代表作と認識されています。

さて、この『シッダールタ』を土台とし『デーミアン』の要素を加味した戯曲「シッダールタ」が今年11月15日から12月27日まで世田谷パブリックシアターで上演されることになったので、興味津々でチケットをゲットすると共に本書を読み返すことにしたのですが、この戯曲が底本とした『シッダールタ』は、私が愛読してきた高橋健二訳(新潮文庫 1971年)ではなく真新しい酒寄進一訳(光文社古典新訳文庫 2025年)でした。それでもむしろこれはよい機会だと思い、この新訳を買い求めて観劇の前に読んでみたところ、自分が知っている『シッダールタ』とのテイストの違いが随所に感じ取れてたいへん面白い。

酒寄進一氏が新たに翻訳するときに訳語の選択や文体についていかなる工夫を施したかは「訳者あとがき」に述べられていて、これだけでもとても参考になるのですが、せっかくなので、主人公シッダールタの人生における各段階から親友ゴーヴィンダとの対話を中心に二つの訳文を抜き出して比較することにより、この「テイストの違い」の可視化を試みました。


巻頭

これは『シッダールタ』のまさに冒頭の部分。初めて本書を読んだとき、この一文だけで本書に強く惹き込まれたことを今でも覚えています。

  • 〔高橋訳〕
    家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、サラの木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタ(悉達多)は、バラモン(波羅門)の美しい男の子、若いタカは、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダ(典尊)とともに、生い立った。
  • 〔酒寄訳〕
    家の陰、小舟が浮かぶ川岸の日の照る中、昼なお暗き沙羅双樹の蒼林、イチジクの木陰。美しきバラモンの子、若き鷹シッダールタはそこで育った。友であり、おなじくバラモンの子ゴーヴィンダとともに。

この部分の原文は次のとおりです。

Im Schatten des Hauses, in der Sonne des Flußufers bei den Booten, im Schatten des Salwaldes, im Schatten des Feigenbaumes wuchs Siddhartha auf, der schöne Sohn des Brahmanen, der junge Falke, zusammen mit Govinda, seinem Freunde, dem Brahmanensohn.

訳者はそれぞれの考え方でヘッセのリズミカルな文体と美しい情景描写を訳文に反映しようとしていますが、〔高橋訳〕がドイツ語の構文の再現を心掛けているのに対し〔酒寄訳〕の方は日本語としての可読性を優先しているように見えます。そうした違いはあっても、いずれの訳も原文の格調を日本語に移し替えることに成功していると思います。


青年期

覚者ゴータマのもとを訪れた二人の若者はその説法を聞き、ゴーヴィンダはこれに帰依することを決意します。しかしシッダールタは、ゴータマが到達した境地はたとえゴータマであっても言葉では伝えられないことを見抜き、友に別れを告げます。

  • 〔高橋訳〕
    ゴーヴィンダはまだ十分にのみこめずに、焦燥の調子で問いをくり返した。「どうか言ってくれたまえ、お願いだ、友よ!そうならないことはありえないのだ。博学な友よ、君も崇高な仏陀に帰依するだろう、と」シッダールタはゴーヴィンダの肩に手を置いた。「君はぼくの祝福を聞きもらした。おおゴーヴィンダよ。それをくり返そう。その道を最後まで歩むように!解脱を見いだすように!」その瞬間ゴーヴィンダは、友が自分を捨てたことを悟って、泣き出した。
  • 〔酒寄訳〕
    その言葉の意味するところをうまくのみ込めなかったゴーヴィンダは、もどかしそうに質問を繰り返した。「言ってくれ、お願いだ!言ってくれ、学のあるきみのことだ。きみも世尊ブッダに帰依するに決まっている!」シッダールタはゴーヴィンダの肩に手を置いた。「ぼくの祝福の言葉を聞き間違えたようだな、ゴーヴィンダ。もう一度言う。きみは自分の道を最後まで歩むといい!解脱に至ることを祈る!」その瞬間、友と別れるときが来たと気づいて、ゴーヴィンダは泣きだした。

訳文全体を通して〔高橋訳〕が文語調の雰囲気をまとい〔酒寄訳〕はより口語的、会話文になるとその傾向が一層はっきりと現れます。バラモン階級の高等教育を受けてきた二人の若者の会話なのである程度文語的である方がむしろ自然に思えますが、それよりもこの部分で目につくのは「友が自分を捨てた」と「友と別れるときが来た」の違いです。ここはdaß sein Freund ihn verlassen habeの訳ですが、〔高橋訳〕は二人の別れがシッダールタの意思であることを強調しているようです。


中年期

俗世での暮らしを捨て、川に身を投げようとしたものの思いとどまったシッダールタが、修行の旅の途上で通りがかったゴーヴィンダと再会した場面。このとき二人は40代になっています。

  • 〔高橋訳〕
    「そして今は、シッダールタ、今はおん身は何なのだ?」「私にはわからない。おん身にわからないと同様に、私にもわからない。私は途上にいるのだ。私は金持ちだった。だが、今はもうそうではない。明日何になるか、私にはわからない」「おん身は富を失ったのか」「私は富を失った。あるいは富が私を失ったのかもしれない」
  • 〔酒寄訳〕
    「では今は何者なんだ?」「わからない。きみに劣らず知らない。わたしは途上にいる。金持ちだったが、今は違う。そして明日、なにになるか知らない」「富を失ったのか?」「ああ、失った、というか富がわたしを失ったというべきかな」

一見して、〔高橋訳〕では二人称代名詞が青年期の「君」から「おん身」に変わっていること、〔酒寄訳〕では主語の省略が目立つことに気づきます。〔高橋訳〕では二人の間に距離が生まれていることが伝わる一方、〔酒寄訳〕の方は二人が若い頃の友人同士のままであると読むことができそうです。


老境

最終章。愚直に求道の旅を続けてきたゴーヴィンダが、川の畔に住む賢者の噂を聞いて渡し守のもとを訪ね、それがかつての友シッダールタであることを知って驚きかつ喜ぶと共に、老境に達したシッダールタが何を見つけたのかと尋ねる場面。

  • 〔高橋訳〕
    「ゴーヴィンダよ、知恵は伝えることができない、というのが私の発見した思想の一つだ。賢者が伝えようと試みる知恵はいつも痴愚のように聞える」「冗談を言われるのか」「冗談を言いはしない。私は自分の発見したことを言っているのだ」
  • 〔酒寄訳〕
    「いいかな、ゴーヴィンダ、わたしが見いだした考えをひとつ教えよう。『知恵は人に伝えることができない』というものだ。賢者が知恵を人に伝えようとすると、いつも戯言に聞こえるものなんだ」 「ふざけているのか?」 「ふざけてはいないさ。わたしが見いだしたことを言っているんだ。」

〔高橋訳〕ではシッダールタに教えを乞おうとするゴーヴィンダの謙虚さが窺え、一方〔酒寄訳〕での口調は若い頃のままです。この物語をここまで読んできて、その中で経過した時の流れを共有している読者にとっては〔高橋訳〕の方が自然なものとして受け止められそうですが、この感想は私が〔高橋訳〕に親しんできた年月を反映しているのかもしれません。


最後

上記のやりとりの後にゴーヴィンダが友に永遠の別れを告げたところ、シッダールタは自分の額に口づけをするよう求めます。ゴーヴィンダがそのようにしたとき、彼の目にありとあらゆる生と死のビジョンが映り、やがて目の前のシッダールタの静かな顔にかつての覚者ゴータマと同じ微笑を見出します。二人の長い旅路の果てを描くこのラストシーンは何度読んでも、ゴーヴィンダと同様に涙が流れそうになります。

  • 〔高橋訳〕
    深くゴーヴィンダは頭をさげた。なんとも知れない涙が老いた顔に流れた。無上に深い愛と、無上につつましい尊敬の感情が心の中で火のように燃えた。身動きもせずにすわっている人の前に、彼は深く地面まで頭をさげた。その人の微笑が彼に、彼が生涯の間にいつか愛したことのあるいっさいのものを、彼にとっていつか生涯の間に貴重で神聖であったいっさいのものを思い出させた。
  • 〔酒寄訳〕
    ゴーヴィンダは深々と頭を垂れた、なぜか涙が老いた顔を伝い落ちた。この上なく奥ゆかしい愛、この上なくつつましい敬愛の情が、彼の心の中で燃えさかった。ゴーヴィンダはじっと動かずすわっているシッダールタに深々と地につくほど頭を垂れた。シッダールタの笑みは一生のあいだに愛おしいと思ったものすべてを、かつてその人生において大切で神聖だったものを思いださせた。

「なんとも知れない」と「なぜか」、「深い愛」と「奥ゆかしい愛」といったニュアンスの違いもさることながら、〔高橋訳〕はシッダールタの名前を出さず「人」としていること、〔酒寄訳〕は最後の一文の中で〔高橋訳〕にある「彼に」を伴わない点に目が向きます。〔高橋訳〕は読者が第三者としてこの場面に立ち会っているようですし、〔酒寄訳〕はよりゴーヴィンダの主観に寄り添っているような感じがします。


このように複数の翻訳を読み比べてみたのは初めてでしたが、こんなに違うものなのか!と驚きました。もちろん、この比較はどちらが優れているとかいないとかいう話ではなく、単にその違いを味わってみよう(できることなら、その違いのよってきたる所以を推察してみよう)とするものですし、上述のコメントにも読み間違いや考慮不足があるかもしれません。それでも、違いを紐解くこと自体が楽しい経験だった上に、このことにより『シッダールタ』を今まで以上に深く読み込むことができて、実りの多い作業となりました。

とは言うものの、『シッダールタ』も『デーミアン』も片手に余る種類の翻訳があって凝り出したらキリがありません。よって、楽しかった・実り多かったとは書きましたが、この作業は以上で打ち止めです。

◎演劇「シッダールタ」の観劇レポートは〔こちら〕。