深層

2014/12/19

河合隼雄『影の現象学』を読了。著者(1928-2007)はスイスのユング研究所でユング心理学を修めた心理学者で、文化庁長官も勤め、日本人論でも多くの著作を持つ碩学です。

この本を読むことにしたのは、先月紹介したローレンス・ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』がユングの「影シャドウ」の概念を色濃く反映したものであったことを契機としており、まず同書の「影さす牢格子」でのハラの戦犯裁判から連想した『ハンナ・アーレント』を先に読んでから、ついでこの本に取り掛かっていたのでした。 ユング心理学には「ペルソナ」「コンプレックス」「シンクロニシティ」などよく知られた用語が登場しますが、それらの中で本書が主題とする「影」とは「自分の中にある認めたくないもう1人の自分」といった概念で、本書の中では、次のように説明されています。

人はそれぞれその人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体として自分を把握している。しかし、一つのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向は抑圧されたか、取りあげられなかったか、ともかく、その人によって生きられることなく無意識界に存在しているはずである。その人によって生きられなかった反面、それがその人の影であるとユングは考える。

本書によれば、個人は自分の「影」を深層心理の中に抑圧しているために意識しないことが多いのですが、他人の中に自分の「影」を認めることがあります。このとき、その「影」を自分自身の一部として認め、自分の生き方を変えられればよい(セラピストはその手助けをする)のですが、「投影」した相手を嫌悪し、攻撃的になることもあり得ます。これが集団間で行われたのがナチスによるユダヤ人虐殺であったとユングは見ており、この点への言及は本書の中でも随所に登場します。

これは最も苛烈な姿で影の影響が現れた例ですが、個人レベルでも影の姿が劇的な様相を示す場合として本書では二重身(ドッペルゲンガー=もう1人の自分の認識)や二重人格の事例が紹介されています。また、ユングが重視したように神話や宗教説話の中から「影」の世界を示す地獄のイメージ(本書では『往生要集』の八大地獄)を取り出したり、逆にそれだけでは平板である生に彩りと深みを与える「影」の姿として道化(例えばオセローに対するイアーゴー)、トリックスター(吉よむ、彦一)、ストレンジャー(マーク・トウェインの『不思議な少年』)を解説した後、終章において「影」といかに対話しながら自我との統合を図ってゆくかを論じています。

このように駆け足で説明するとやや無味乾燥な印象を受けるかもしれませんが、本書の中にはユングの著作や筆者自身の臨床経験の中で遭遇した被験者のさまざまな姿(特にその「夢」の数々)が紹介されていて興味深く、また単にユングの説を引き移すだけではなく、日本人の心性に即した自己実現の方策の探求を課題として提示している点も本書の説得力を増しているように思いました。これは本書に必ずしも明示的に記述されているわけではありませんが、本能(欲望)を抑制することを中心教義とするキリスト教の社会にあっては自我と影とは鋭く対立する傾向にあり、従ってその相克と調和がテーマとなるのに対し、規範意識が基本的に緩い日本の精神風土ではユング心理学のアプローチが完全にフィットするとは限らないと筆者も思っていたのではないでしょうか。

付け焼き刃の知識でのこれ以上の論評は控えることにしますが、自分自身を振り返ると、確かに自分の中に「嫌な自分・認めたくない自分」を見出すことがときどきありますし、それがふとした拍子に理性(と思っているもの)の隙をついて表面化することが徐々に増えてきているような気もしています。そうした「自分の中の自分」とこれからどう付き合っていけばいいのか……と思い始めていたところでもあったので、タイムリーな読書体験でした。まだ確たる答を見つけられた訳ではありませんが、何らかのヒントは得られたように思います。

なお、本書には『マクベス』『オセロー』といったシェークスピア作品を始めとして、他者の著作への言及が数多く登場します。

  • ローレンス・ヴァン・デル・ポストの『影の獄にて』からの引用はかなりの長さに渡っていますが、絞首刑の前夜の対話の中でハラは死を恐れないながらも自分が死刑に処されることに合理的な説明を欲し、これに対してロレンスが「敗北の中の勝利」という日本的な答を返していることをとらえて、西洋と代表するロレンスと東洋を代表するハラとが、互いに自分の影を露呈することによって理解し合えたのだということを指摘しています。
  • 同様に「影の露呈」という主題を通じて紹介されたもう一つの著作は、オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』でした。引用されていたのは、あえて暗闇に包まれた道場で師範が2本の矢を的中させる場面。
  • ホフマンの『大晦日の夜の冒険』は二重身の解説の中で引き合いに出されますが、そこで言及されているホフマンの作品の特徴=日常世界と非日常世界の交錯という主題は『クルミわりとネズミの王さま』でも見られるものです。
  • ヘルマン・ヘッセは第一次大戦時に精神的危機を迎えてユングの弟子たちの治療を受け、その後に発表した『デミアン』(1919年)で作風を大きく変えたことが知られています。本書の中でも『デミアン』は二つの世界を描写する作品として重視されていますが、その3年後に公表された『シッダールタ』においても主人公シッダールタが沙門・世俗の商人・渡し守という複数の生を生きていることや、最後にシッダールタとゴーヴィンダの生き方が鮮やかに対比されていることを考えると同じ文脈の中に捉えることができるかもしれませんし、川の畔でシッダールタの言葉にただ穏やかに耳を傾け続けたヴァズデーヴァの姿はユング派の心理療法家を模したものなのかもしれません。
  • フランク・ハーバートのSF大作『砂の惑星』への言及がないのは当たり前ですが、『砂の惑星』の主人公ポウル・ムアドディブが予知能力を獲得した姿であるクイサッツ・ハデラッハとは「肉体の記憶の中で多くの場所を見ることができる者=同時に多くの場所にいられる者」のこと。少し妄想を広げてみると、これはユングの「集合的無意識」と「シンクロニシティ」の応用なのでは?いや、ちょっとこの解釈には無理があるか……と思ったりもしたのですが、第二作『砂漠の救世主』で最後に産まれる双子のレトとガニマは「アニマ」と「アニムス」を想起させますし、第三作『砂丘の子供たち』で摂政エイリアが自分の内面の声(ハルコンネン男爵のもの)に肉体を乗っ取られつつ死を選ぶラストも「影」との抗争をストレートに表現していますから、あながち無理な立論でもなさそうです。

最後に、本書の中で「ストレンジャー」の解説の一部として示されていた、若くして乳がんで亡くなった女性の詩をここに引用しておきます。ここに登場するおざしきぼっこ(座敷童子)こそがストレンジャーなのですが、そうした文脈と切り離しても、心に沁み通る詩でした。

もしも 私が死んだら
おざしきぼっこに私はなりたい
誰にも知られずざしきの中で
みんなと一緒に笑っていたい